囲碁小説「手談」#1
「ねぇ、最初の一手を打つときどんなこと考えてる?」
杉浦さんが言った。
「最近は小目(こもく)より星に打ってるかな」
「そうじゃなくて」
彼女がおかしそうに笑う。
「私は真っ暗な夜の海に向かって小石を放り投げてる気がする。その石の波紋がだんだん広がっていくの」
「言われてみればそんな気もする」
「紺野くんは夢がないね」
杉浦さんが苦笑いするとお父さんからもらったらしいRのネックレスの金色が揺れた。白いセーターの彼女と黒のカーディガンの僕はまるで碁石だ。
杉浦さんはいつも僕の弱い石を手を緩めずに攻めてくる。おかげで僕の石はよく頓死した。
「もうすぐ初段なのにあと一歩の壁が乗り越えられないね」
杉浦さんが残念そうな顔をする。
「詰碁やったり勉強はしてるんだけど」
言い訳がましいことをまた言ってしまった。
「たぶん実戦が少なすぎるんだよ。もっとたくさん対局しないとね」
「そうだね」
力なく言った。
「先生、一局打ってもいいですか」
杉浦さんが振り返って、眼鏡を外して新聞を読んでいた平林先生に訊いた。
「かまわないけど、紺野くんはいつも時間かかりすぎだからなぁ。早く終わらせてよ」
「すいません。早く打つように頑張ります」
「いや、別に頑張る必要はないんだよ。楽しく打つのが一番だからね」
先生は白髪のまじった頭をかいて言った。
「ただ紺野くんの場合は考えてるんじゃなくて悩んでるだけなんだ。考えるのと悩むのはまったく違う行為だよ。悩んでる暇があったらとにかく一手を打つ。後から振り返ってそれが悪手でもいい。人生が時間切れで終わったら笑えないからね」
先生は新聞をたたむと微笑んだ。
「早く打つとポカをしそうで怖いんです。囲碁って一瞬のミスで台無しになっちゃうじゃないですか。そうなったら相手に申し訳ないと思って、つい慎重になっちゃうんです」
「つい慎重になっちゃって、いつも針が振り切れそうになるのよね。そのスリルが楽しいのかしら」
意地悪そうな目が僕を見た。
「悩んでばかりでごめん」
「悩むのは若者の特権だからいいんじゃない。大いに悩みたまえ」
杉浦さんが僕を指差してふてぶてしく笑った。
「二人が同い年とは思えないなあ」
先生はお茶を啜りながら杉浦さんと目を見合わせて笑った。
「とりあえず始めましょう」
杉浦さんは僕をじっと見つめた。漆黒の碁石のように艶やかな瞳。
彼女は先月五段に昇段したので、六つ石を置いた。真夜中の海に小石を放り投げるみたいにそっと。
杉浦さんはゆっくり右手を伸ばして、左下隅の黒に小ゲイマガカリした。ほっそりした指の爪はやすりをかけたようにきれいなピンク色をしている。
黒地を荒らしにきた白石を攻めたてた。しかし彼女の石はウナギのように僕の手からぬるぬる逃げ出した。「相手の石を攻めながら地(じ)を作って得をする」が勝ちのセオリーなのに、相手の石を仕留めないかぎり勝てない打ち方をした。白いセーターを着たウナギは微笑みながら逃げていった。
「負けました」
ぐったり俯いて小さな声で告げると、杉浦さんはため息をついた。
「先生、どう思いますか」
「紺野くんはいつもこんな碁ばかりだねえ。性格が出てるよ」
「そうですよね。弱いのにどうして無理な手ばかり打とうとするのかな。普通に堅く打てば六子で勝てるはずだよ」
「つい頑張っちゃうんだよね。いつもベストな手を打とうと思っちゃうんだ」
「ベストな手なんてないのよ」
杉浦さんは顔をしかめた。
「ベストな手にこだわってるから時間が足りなくなるの。その瞬間にぱっと思いついた手を打っていけばいいのよ。実戦をたくさん積めば、その手が最善手になっていくんだから。ねえ、先生」
「紺野くんの今の課題はミスを恐れずにとにかく早く打つように心がけること。下手の考え休むに似たりですよ」
責められてしなびたほうれん草みたいになった僕を見て、二人が苦笑した。
壁の時計が七時十分を指していた。僕と杉浦さんは先生にお礼を言って教室を後にした。
駅まで一緒に歩きながら、屈託のない笑顔で話す杉浦さんを御飯にどう誘うか考えていた。今日まで何度も誘おうとしては言葉を飲み込んでいた。
「ねえ、よかったら、晩御飯食べていかない?」
杉浦さんは驚いた顔をした。何かを考えるときの癖で目玉がくるりと回った。
【囲碁用語】
小目(こもく)、星(ほし)……碁盤上の位置。
ポカ……大きなうっかりミス。
針が振り切れそう……対局に用いるアナログ時計の針が振り切れて時間切れ負けになること。秒読みがなく、持ち時間を使い切った時点で負けになる「切れ負け」ルール。
置石(おきいし)……ハンデのこと。一段(一級)の差の分だけ下手が石を置く。
小ゲイマ(こげいま)……対象の石から見て、将棋の桂馬の動く位置のこと。
カカる……相手の石に攻撃的なモーションをかけること。
地……陣地のこと。囲碁は陣地取りゲームである。
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