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囲碁小説「手談」#14
駅前でリュックをあさる僕を杉浦さんは不思議そうに見つめていた。
「あった。よかったらこれ聴いてみない? こないだ杉浦さんクラシックあまり詳しくないって言ってたからどうかなと思って」
僕はグレン・グールドが一九五五年に録音したバッハの『ゴルトベルク変奏曲』のCDを見せた。杉浦さんはぽかんとしていた。
「ごめん、唐突だったかな。クラシックに興味ありそうだったから、いろいろおすすめのCD教えてあげようと思って」
彼女は表情を変えることなく黙ったままだった。
「このCD、クラシックファン以外にも人気の名盤なんだ。取っかかりにはいいと思って」
「わざわざありがとう。聴いてみるね」
彼女の顔には当惑が浮かんでいた。知り合ったばかりなのに意気込みすぎて馬鹿みたいだ。
「それじゃ」
杉浦さんが言った。
「今日はいろいろ話を聞かせてくれてありがとう」
僕の言い方が大袈裟だったのか、彼女は苦笑いした。そして、改札の中の雑踏に紛れて消えた。
翌週の水曜、授業中に吉川さんからメッセージが来た。「今日来るなら、二次会には参加しないで二人で少し話しませんか」。「わかりました」と返信した。
いつものように《hermitage》で雑談した後、岩本さんがみんなを飲みに誘った。
「俺は今月金欠なんだ。すまん」
吉川さんが冗談めかして断った。
「そんなあ。部長がいないと盛り上がりに欠けますよ。また岩本先輩の独演会になりそう」
高橋さんが困った顔で笑った。
「すいません。僕も用事あるので今日は失礼します」
「紺野も? じゃあ今日は三人で盛り上がるか!」
岩本さんが豪快に笑うと、
「そう言っといて、盛り上がるのいつも岩本さんだけなんだけどね」
坂口さんが僕を見て苦笑した。
駅に歩いていく三人を見送ると「少し歩こうか」と吉川さんが言った。
生暖かい風が身体を撫でていく。黄味がかったオレンジの夕日が僕らを照らす。大きな公園が見えた。
「気持ちのいい天気だからここで話そうか」
吉川さんは自販機で飲み物を二つ買うと、
「はい。これはおごり」
僕に缶コーヒーを手渡した。吉川さんの左手には紅茶のペットボトルがあった。
ベンチに座ると、日差しが正面から当たった。そのせいで夕方だが肌寒くはない。
ユニフォームを着た小学生たちがサッカーの練習をしている。
「最初のうちは不安そうだったけど、サークルに馴染めてよかったね。最近はよく喋ってるし」
吉川さんは微笑んだ。
「先輩たちが優しく接してくれるので。それに趣味の話は先輩後輩関係なく盛り上がれるからいいですよね」
僕は笑った。吉川さんは夕日を眺めていた。
「俺、内々定決まったんだ。商社に」
吉川さんがぼそっと言った。
「ほんとですか。おめでとうございます」
「就活就活で参ってたから、大音量でマーラー流して伸びてたよ」
だらんとした吉川さんを想像して笑った。
「俺、楽友会辞めようと思うんだ」
「え?」
思わず息を呑んだ。
「岩本に部長代わってもらおうと思って。部員少ないから新勧活動頑張ってな」
「何でですか。何かあったんですか」
吉川さんは紅茶を一口飲むと、小さくため息をついた。
「就活中にいろいろ突っ込んだこと訊かれて、うまく答えられなかったんだ。自分がいかに世間知らずか思い知らされたよ。まあ、就活って社会人になるための通過儀礼だから当然なんだけどさ」
吉川さんは苦笑した。
「紺野は将来目指してるものある?」
言葉に詰まった。
「バイトとかしてないんだっけ」
「はい」
「囲碁また始めたって言ってたよね」
「ええ」
「楽しい?」
「楽しいです。久しぶりで新鮮ですし」
「囲碁の教室と楽友会とどっちが楽しい?」
「そんな。どっちも楽しいですよ」
変なこと聞くんだなと思って笑った。
「俺、ずいぶんクラシックに詳しいような気でいたけど、全然そんなことなかったんだって最近気づいたよ」
吉川さんはじっと夕日を見つめていた。
「でも、吉川さんものすごく詳しいじゃないですか。いつもいろいろ教わって勉強になってますよ。吉川さんのおすすめで買って正解だったCDもたくさんあるし」
「お前『運命』のCD何枚持ってる?」
「さあ。十枚くらいは」
「誰が一番好き?」
「やっぱりクライバーですかね。定番ですけど」
「そう。クラシックって深みに嵌まれば嵌まるほど、本質から遠ざかっていく気がする」
「どういう意味ですか?」
「岩本なんか日本のオケは下手だっていつも言ってるけど、演奏してる側と聴いてる側のあいだにはものすごく深い溝があると思うんだ」
吉川さんは大きく息を吐いた。
「演奏する側の音楽の理解に我々はとても及ばない。たとえアマチュアの演奏家であってもね」
「でも、アマチュアの人でプロの演奏家のこと全然知らない人もいますよね」
「たしかに俺の友達で幼稚園からヴァイオリン弾いてるやついるけど、オイストラフやハイフェッツすら知らないね。『一番好きなヴァイオリニストは?』って訊いたら『先生』だってさ。でも、それでいいんだよ」
吉川さんは紅茶を一口飲んだ。夕日が雲に遮られた。
「俺らはフルトヴェングラーやクライバーの『運命』聴いてどれが一番とか言い合ってるけど、スコアを見たことすらないじゃない。俺、こないだ『運命』のスコア買ってきたよ。それ見ながらCD聴いて、指揮者ってこれだけの演奏家と音符を捌いてるのかってびっくりしたよ」
パスの練習をしていた子供たちが帰り始めた。
「たとえ何十種類の『運命』を聴いたところで、楽器を習い始めた人にはかなわない。最近そんな気がしてきた」
「何かあったんですか」
「就活中に何度も冷や水を浴びせられたからかな。内々定もらって会社っていうステージが見えてきて、考え方が変わったのかもしれないね。ステージに立ってる人間と客席から眺めている人間は背負ってるものが違う。紺野もいつかそういうステージに立つ日が来たらわかるよ」
太陽が沈んで、寒い風が吹いた。僕のコーヒーはすっかり冷めていた。吉川さんのペットボトルも空だった。
「そろそろ帰ろうか。長話に付き合わせちゃったね」
吉川さんはいつもの優しい顔で笑った。
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