これが「大植の第九」なのか? 大植英次/神奈川フィルの第九@ミューザ川崎
ミューザ川崎で、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の「For Future巡回公演シリーズ川崎公演
ベートーヴェン『第九』」を聴いた。
モーツァルト:歌劇「バスティアンとバスティエンヌ」序曲
ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調Op.125「合唱付き」
ソプラノ:宮地江奈
メゾソプラノ:藤井麻美
テノール:村上公太
バリトン:萩原潤
合唱:神奈川ハーモニック・クワイア
ゲスト・コンサートマスター:戸原直
指揮:大植英次
今日の大植英次の第九を聴いて、「M-1グランプリ」の真空ジェシカを思い出したのはおそらく私だけだろうな……(相変わらず連想回路がぶっ飛んでます😅)
今日のコンサートに行ったのは、このコンビの「幻想交響曲」がべらぼーに素晴らしかったから。
この演奏会はYouTubeでも配信されている。ぜひ見てほしい。
私はこの「幻想」が2回目の大植英次だったが、個性満点の濃厚な表現に完全にKOされ、いっぺんにファンになってしまった。
そして、クラオタの友人に「ぜひ聴いてみて! 今どき珍しい個性派なんで」と勧めて回ってきた。
今日の演奏を聴いて一番びっくりしたのはその変貌ぶりだ。それが、「M-1」の決勝と最終決戦でまったく異なっていた真空ジェシカの作風と被って感じられたのである😅
「大植英次は個性満点」というのは私の勝手な思い違いだったのだろうか?
まずモーツァルトだが、小編成だったり3階席だったりしたことを除外しても、オケの音量が小さすぎた。
「何だ? この弱々しいモーツァルトは⁉︎」と出だしから不安になってしまった。
聴衆の反応も芳しくなく、大植さんが引っ込んだらすぐに拍手が止まった。
さて、第九。会場のざわつきを別にしても、冒頭のトレモロに神秘性や幽玄さは感じられない。
今回の第九で一番びっくりしたのはテンポである。
大植さんって粘っこくて伸縮自在のテンポが特徴だと思っていたのだが、今日はどんどん前に進む。
間を設けずに話し続ける人みたいに忙しない。
「動く歩道」のようにも感じた。テンポが一定なので、先の展開が読めてハラハラしない。
指揮者いらないんじゃね?とすら感じた。オーケストラが指揮者なしで演奏しても似た音楽になってたと思う。
ではなぜ大植英次が「いつものくどさ(いい意味で)」を封印していたかというと、私の愚考では
❶体調が悪かった
❷「第九」は初心者の人が大勢来るので、アクの強い演奏は控えた(オーソドックスに徹した)
の2つしか思いつかない。
「個性満点」ゆえに大植英次を激推ししていたのに、私の勝手な期待の押し付けだったのだろうか? 演奏を聴きながらすっかり落胆していた。
オーケストラに大きな瑕疵があったわけではない(合唱団やソリストも)。
指揮者がとにかくやたらとオーケストラを急かすので、忙しない音楽が延々と続く。まさに「1.3倍速で聴くクラシック」だ。
ブロムシュテットや小澤征爾のベートーヴェンもテンポが速く颯爽としているが、それらが忙しないとは感じない(好みではないが)。今日の大植さんの指揮は「タメ」と呼べるものがなく(後で書くが最後の最後に1箇所だけあった)、作曲家の思いを深く抉るようなこともなかった。呼吸が浅いまま、とにかく次へ次へと音楽が流れていく。
第九が終わったのが20:15くらいだったと思う。コンサートの開始が遅かったので、モーツァルトを除いて、第九の演奏時間は65分もなかったのではないか。
第2楽章スケルツォも高速テンポであっという間に終わった。
演奏とは関係ないが、ティンパニの太鼓の縁が赤い輪になっていて、金魚すくいのポイに見えた。舞台を見ているとその赤色がやけに目立つので(そんなティンパニは初めて見た)、地味な色の方がありがたかった。
コンサートは耳だけで味わっているのではなく、目でも味わっている。指揮者が仮に変な帽子を被っていたら気になる人もいるだろう。まあティンパニの色を気にするお客さんなんていなそうだが……。
Xには書いたが、今日は子供連れのママさんが2人いて、小学生の子供4、5人とママさんたちが横一列に並んで聴いていた。
開演前から嫌な予感がしたが、予想は当たって、第1楽章と第2楽章の終わりで拍手。
最初の拍手は間違いかとも思ったが(そのわりにはやけに長く拍手していた)、2回目に起きたときは「わざとやってんのか?」とさすがにイラッときた。なんで親が注意しない?
マナー違反は他にもいろいろあった。
・長時間の咳
・前の席を蹴る(音が響く)
・演奏中に当たり前のように話す、笑う(親も一緒に)
・第3楽章で思いきり物を落とす
・ロビーを走る
開演前のマナーのアナウンスはとても具体的で丁寧だったが、飴舐めてるおばさんもいたし、さすがに敷居の低い「第九」だと限界がありますね。
とはいえ、「しょうがない」とはとても思えない。
夜に川崎に行くのは初めてだった。家から遠いのでマチネーに限って行ってたが、それでも今日行ったのは大植英次の芸術に接したかったから。
演奏の出来は予見できないが、こんな環境で聴くのがわかってたら4500円も払わなかった。公園でヒーローショー見る感覚で来てるんじゃないの?
子供に罪はないです。退屈しちゃうようなイベントに連れてくる親の責任。
こんなノイズまみれの環境では、アダージョにまったく陶酔はできない。配信で見たジョナサン・ノット/東京交響楽団の「第九」のアダージョもわりと高速だったが、あちらは速い中にも微細なニュアンスの変化があった。
今日の演奏は味もそっけもない。「歓喜の歌」までの「繋ぎの音楽」にしか思えず、早く終わってほしいと思ってしまった。
で、第4楽章。てっきり合唱団とソリストが入ってくるのかと思いきや、入らないまま演奏がスタート。歌う直前で入れるのねーと納得がいく。
それ自体は拍手防止の演出としていいと思うが、その後がひどかった。上手から男性歌手、下手から女性歌手が現れ、微笑みを交わして手を振り合ったり握手したりする。
誰が考えた???😅
「失笑」「噴飯」としか言えない演出。プログラムには「演出担当」とか書いてないから、ひょっとして大植さんのアイデア?
だとしたら悲しすぎる……🥲
オペラのコンサート形式でもあるまいし、第九のソリストに小芝居をさせる意味がまったくわからない😓
で! 最後の最後にびっくりが。
第4楽章のラスト、4重唱が絡み合う場面が終わったあと弦楽が加速していくが、あそこで大植さんは極端にテンポを落とし、超激遅モードから加速していく演出をした。
その違和感ぶりはチェリビダッケどころか宇野功芳を思い出させるほど😅
私にはこの解釈の意図がさっぱりわからなかった。今まで無個性と言えるくらい特徴のない演奏を快速で進めてきたのに、何でここでこんなことするん?って。やりたいことが統一されてへんやんって思ってしまった。
「終わりよければすべてよし」的なラストの盛り上げにも興醒めし、拍手が始まったらさっさと外に出てしまった。
指揮者も子連れの客も、私とは感覚が相入れない気がして、その場に留まっていたくなかったのだ。
もし今日が初めての大植英次体験だったら、もう一回聴きたいとは思わなかっただろう。
「無個性なオーケストラ芸術が流行る現代における数少ない個性派指揮者」と思い込んできた大植英次。私の期待の押し付けでしかなかったのだろうか?
今日の「第九」ははたして「大植英次の第九」だったのだろうか? 私はいまも困惑の中にいる。