クン・ウー・パイク 純白のモーツァルトに揺蕩う
武蔵野市民文化会館小ホールで、クン・ウー・パイクのピアノ・リサイタルを聴いた。
モーツァルト:
幻想曲 ニ短調 K.397
ロンド ニ長調 K.485
ピアノ・ソナタ第12番 へ長調 K.332
自動オルガンのためのアンダンテ ヘ長調 K.616
アダージョ ロ短調 K.540
ジーグ ト長調 K.574
幻想曲 ハ短調 K.396
前奏曲とフーガ ハ長調 K.394
何と! オール・モーツァルト!
パイクのような大ベテランがオール・モーツァルトとは。これはガチのリサイタルだと思い、行くことにした。
よく言われることだが、モーツァルトは無駄な音符がない。
天才中の天才だから当たり前なのだが、シンプルを極めた楽譜だからこそ、奏者の力量が露呈してしまうのだ。
ピアニストに限った話ではない。ベテラン音楽家ほど、モーツァルトの怖さを知っていると言えるだろう。
武蔵野市民文化会館といえば、文字だけの低予算チラシでおなじみ。ちなみに今回はこれ。
「この日は本を持って行こう。帰路の電車の中で止まらない涙を隠すために」など、素面で書いてるのかわからないテンションのコピーだが、これが武蔵野クオリティなのだ(この○○クオリティって言い方ももはや死語か?😅)。
こんな公演、王子やトッパンなら1万超えでもおかしくない。
武蔵野は料金もリーズナブル。ありがたい。
さて、今日の感想だが、開演前に異例のアナウンス。
「曲間の拍手はNG。前半の最後だけにしてほしい」という内容。
結果的にそれがよかった。今回パイクは譜めくり係をつけて演奏していたが、毎回毎回拍手していたのでは演奏会の流れが途切れる。
曲はすべてモーツァルトだから、切れ目なく演奏しても違和感はない。このやり方はいいなと感じた。
ステージのわりと近くで聴いたが、パイクのすぐ奥にパイプオルガンがあるので、冒頭の「幻想曲 ニ短調 K.397」が始まるやいなや、巨峰を見上げる心境がした。ブルックナーのシンフォニーを聴いているようだった。
ただ、ステージに近いせいか、ピアノの音が大きすぎて、すべてmf以上に聴こえたくらいダイナミクスの幅は狭く感じた。
私にとって今夜の圧巻はピアノ・ソナタ第12番 へ長調 K.332の第2楽章。
天国的なモーツァルトの調べが最も美しく結晶化したような音楽だった。
前半のところどころで私は目を瞑った。目を開けていると、どうしても人がピアノを弾いているという観念から抜けられない。
目を瞑れば、モーツァルトの純白の世界で音符と戯れられるのだった。
休憩後の後半は、近くの客の出すノイズで気が散ってしまった😓
私はコンサート中、かなり神経質なところがある。それもそのはず、「ざっくり聴ければいい」のであれば、わざわざお金を払って電車に乗ってこない。
生の演奏に接する目的は、私にとって音楽とそうでないものの境目を聴くことにある。
音が生まれ、音が消えていく。その淡い境目の瞬間を目撃したいし、そこに耳を澄ませたいのだ。
価値観の違う大勢が集まってる空間だから多くを期待することはできないが、耳をそばだててpppppくらいのニュアンスまで聴き取ろうとしているのである。
残念ながら後半は集中力が下がってしまった。せっかく貴重な生演奏を聴いてるのだから、多少のノイズは割り切ってなるべく演奏に集中すればいいものを、そこは私の特性も影響しているのかもしれない。
最近思うのは、自分にとってコンサート通いは娯楽や趣味ではなくなってるということ😅
私にとっての娯楽は、例えばXでのジョーク投稿やいろんな方との交流、美味しいものを食べる、友人との雑談など。
コンサートに行ったあとは感想の賛否を問わず、必ずブログを書くようにしている。専門的なことは書けないかわりに、「なぜ感動したのか? なぜ感動しなかったのか?」を自分の言葉で書くようにしている。
その結果、芸術鑑賞における感動や美の本質は何だろう?という、自分にとってのライフワーク的探究にもなっている。
もはや全然娯楽ではないのだ😂
これは「○○道」に近いかもしれない。茶道や華道のようなお稽古事は趣味でもあるだろうが、人生修行にも通じる。
将棋や囲碁も「棋道」だし、最近はサ活(サウナ活動)が高じて「サ道」というのまである。
私の場合は「鑑賞道」?😅
「自分が行ったコンサートの感想を読んだら、こはださんと(否定的な)感想が同じだった」とか「何となくコンサートが物足りなかったけど、こはださんがうまく言語化してくれた」とたまに言われることがあるが、嬉しいものだ。書く励みになる。
すっかり話が逸れてしまったが、最後の「前奏曲とフーガ ハ長調 K.394」はおそらく初めて聴いた曲。
フーガの大家といえば大バッハだが、モーツァルトのフーガってこんな感じなんだ!と新鮮で面白かった。
パイクは最後の曲だからでもあるだろう、フーガの後半は体重を乗せた力強い打鍵で弾き、まるでベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」のようだった。
アンコールはなし。表情や仕草からそれを察知したので、カーテンコールが1回余分に感じた。
ピアノ1台でブルックナー的宇宙を感じさせたクン・ウー・パイク。子供が弾くモーツァルトの純白さとは異なり、幾多の苦難を乗り越えたピアノの巨人によるモーツァルトの白さは格別だった。