液晶を通した情報に満足しない
仕事ではPCの画面を最低でも8時間。それ以外の時間はスマホをだいたい2時間くらい。
そう考えると、1日10時間は液晶画面を見ていることになる。起きている時間の半分以上を占める計算だ。
コロナの影響でリモートでのコミュニケーションが一般化し、人との会話も画面越しで行う場面が非常に増えた。そして、ネットコンテンツの充実や高画質化によって、まるでリアルに近い環境が液晶を通じて提供される。
自分が住む世界とは遠く離れた場所でも、高画質な映像を通じてあたかもその場にいるような感覚が味わえる。恵まれ時代であることは事実だ。
ただ、それはある意味虚構であり、本物の世界ではない。
所詮はレンズ越しの、限られたフレームに収まる映像がデジタル化されただけのもので、さらにそれに人手による編集が加わっているのだ。
この事実を見失わないように気をつけなければならない。
特に、旅行、音楽ライブ、演劇、スポーツ観戦といった娯楽では、デジタルコンテンツがいくら進化しても、現場でしか感じられない空気感がある。
そこにこそ、リアルの価値がある。デジタル化が進むほど、そのことに気付かされる。
五感を通じて感じるその場の空気や音、温度。それこそが「リアル」であり、価値がある。
仕事においても、最近そんなことを感じるようになった。
コロナ禍から4年が経過し、結局は現場、対面でのコミュニケーションに勝るものはないと思うようになった。
例えばリモート会議に参加するのと、現場の打ち合わせで顔を合わせながら他者とコミュニケーションするのとでは、得られる情報の量、質がまったく異なる。
参加者の表情や緊張感、議論の進むテンポやその場の空気感。これらは、Zoomなどのオンライン会議では感じ取ることができない。
かつて私もリモートワーク肯定派だった。コロナ直後も業務は問題なく継続できたし、必要最低限のコミュニケーション手段さえ確保されていれば業務は回った。
ただそれは一時的な非常事態における話であり、長期的に深い人間関係や本質的な議論を築けるかと言われると、やはりそれには限界があると感じる。
液晶とイヤホンを通じたコミュニケーションだけで、本当に相手の意図や気持ちが伝わるか?本質的な議論が深まるか?そう問われれば、否だと感じる。
この感覚は、ある意味スピリチュアルな要素も含むかもしれないが、やはり五感、そして第六感も含めた全ての感覚を使って「生きる」ことが、本質的な人間の在り方なのではないかと思う。
だからこそ、社会がいくらデジタルになっても、それにより提供される世界は所詮は虚構なんだということを肝に銘じて、このテクノロジーと付き合っていかなければいけないな、と思う。