見出し画像

寺澤捷年先生

最近新見先生が私のことをあちこちで「岩崎鋼こそ日本の漢方界で最初に臨床医学分野で科学的な研究を始めた先駆けだ」と持ち上げているそうです。と言うか、御本人からそう言っているという話を聞きました。しかしそれは違います。



日本の漢方界で、最初に科学的な研究を始めたのは、基礎では丁宗鐵先生、臨床では寺澤捷年先生です。丁先生は私の直接の師匠のお一人です。今はご病気をされて引退なさっていますが、あの方は基礎の立場から本当に漢方を研究し、英論文として世界に発表するという事を始められました。一方、そういうことを臨床で始めた方は寺澤捷年先生です。瘀血スコアの開発や釣藤散の研究など、漢方の臨床研究に先鞭を付けられました。漢方薬の効果はRCTで検証しなければならない、弁証を標準化し、統計学的に検証したスコアを作らなければならない。彼の当時のそうした発想は、おおよそ時代を30年は先取りしたものでした。無論そういう研究は今では非常に古いものですから、「時代的制約がある」となってしまいますが、それはどの研究だって同じです。今偉そうにそういう人々は彼がパイオニアとして道なき道を歩み始めたという価値を理解しない人々です。



イチローが凄い、大谷翔平が凄いと言いますが、私は本当に凄いのは野茂英雄だと思っています。野茂投手が最初に周囲の反対や妨害を押し切って大リーグに渡り大活躍したからこそ、「日本のプロ野球選手は大リーグで通用するのだ」という事が実証され、そこから多くの選手が大リーグに挑戦するようになったのです。つまり野茂英雄こそその道の「パイオニア」だったのです。後に続いて優れた業績を上げた人も当然その業績は評価されるべきですが、パイオニアとして「道なき道を切り拓いた人」こそ後世に語り継がれるべきなのです。そして日本漢方という世界でパイオニアであったのは、基礎では丁宗鐵、臨床では寺澤捷年でした。



後年の寺澤先生の言動にとかくの批判があるのは私も承知しています。私についての批判がてんこ盛りなのと同じです。しかしともかく寺澤捷年先生は、日本漢方から「臨床研究をしてそれを英論文として世界に発信する」という事を最初に手がけた人であり、それは中国が中医学を大々的に研究し始める遙か前でした。



しかしながら、寺澤捷年先生について私が一番残念に思うのは、後年の彼が(まだご存命ですから申し上げにくいのですが)色々ちょっとどうかという言動をしたことではなく、寺澤捷年に続く人、彼を乗り越える人が出なかったという事です。彼があまりにも偉大すぎたため、彼の周囲や彼の弟子達は、まるで寺澤捷年先生を「寄らば大樹」のように思ってしまったように私は感じます。



寺澤捷年先生が富山医科薬科大学(今の富山大学)にいた頃、しばしば富山市で日本東洋医学会や和漢医薬学会の総会が開かれました。当時はまだ本格的なネット社会ではなかったから、学会参加という事なら富山に行くわけです。それで、富山市のホテルに泊まると、立山連峰が一望に出来ます。



立山連峰は峻険です。屏風のような絶壁が視界全体に立ち塞がってきます。冬ともなるとそれが雪を被るのです。その圧倒的な存在感。



私は若い頃富山の学会に行き、あの立山連峰を覧ると「これが寺澤捷年だ」と思ったものです。この絶壁を超えてやる、と言うことです。その感覚は、彼の周囲の人が持っていた「寄らば大樹の御大」ではないのです。この圧倒的な絶壁をいつか超えてやる、そう思ったのです。私のいくつかの研究は、明らかに寺澤捷年先生の研究を意識したものでした。抑肝散の研究は当然彼の釣藤散の研究を意識したものだったし、気滞スコアの開発は無論瘀血スコアを意識したのです。私が残念に思うのは、日本の漢方界に、寺澤捷年を「寄らば大樹」ではなく「いつかは超えるべき立山連峰」と思った人が、あまりにも少なかったという事です。むしろ多くの人々は、彼のそうした研究に続こうとはせず、昔ながらの一例報告に拘ったのです。だから釣藤散の研究以降、なかなか日本漢方にはRCTが出なかったし、瘀血スコアの次の弁証スコアがなんと気滞スコアになってしまいました。寺澤先生の瘀血スコアと私の気滞スコアでは、概ね30年近い間隔が空いたのです。



今は、かなり多くの若い学徒が日本でも漢方の科学的研究に取り組んでいます。無論中国に圧倒的に引き離されているばかりではなく、韓国にも相当負けていますが、それでもそういう人々がちゃんと日本でも研究が出来るのです。昔は「漢方は個の医学じゃから西洋医学の方法などでは証明出来ん、フガフガ」という爺婆が大手を振っていたわけで、そんな中で漢方の現代医学的手法による臨床研究を始めた寺澤捷年先生は、どれほど迫害されたか、御本人から聞かなくても容易に想像が付きます。まあ、私が研究を始めた頃もそういうフガフガ連中がエラい面(つら)をしていましたが。



私が人生を振り返って一番残念に思うのは、寺澤捷年を超えようと決心した人間が私で、その間に20年も30年も間が空いてしまったという事です。その間に、中国や韓国に圧倒的に引き離されてしまったのです。まあ、それを今悔やんでも仕方が無いので、是非これから、20年と言わず50年、100年の計を建てて日本漢方を現代あるいは未来の医学として再生させていただきたいものです。私もそろそろフガフガ爺さんになりかけています。もはや私が出る幕ではありません。



若い諸君!後を頼んだぞ!!

いいなと思ったら応援しよう!