いいんでねべが:私が嫌われるのを気にしないわけ

私の発言は、ありとあらゆるところで嫌われ、敵を作ります。さらに多くの人は、黙って私を避けます。

しかしそう言う事は、まったく問題ではありません。大勢が私を嫌い、さらに大勢が私を避けるのは、私の言動が真実であり、事実だからです。私はもう59歳であり、その間そういう事実をいやという程経験してきたので、もうそう言うことには慣れっこなのです。人々が私を嫌ったり避けたりするのは、私からすれば何でもありません。

ものすごく昔に遡ります。私が船橋市立峰台小学校の4年生だった時、私は放送部員でした。昼休みに音楽を流すのですが、それはクラシックと暗黙の了解で決まっていました。

私はクラシック音楽が好きです。当時も今も。しかし昼休みの音楽は、何もクラシックで無くてもよいだろうと私は考え、「およげ鯛焼き君」を流したのです。

学校中で割れんばかりの喝采が上がったのは、放送室の私の耳にもはっきりと聞こえました。夕方、放送部担当の教員が私を呼びつけ散々嫌みを言いましたが、私は平気でした。

小学校6年の時、私は生徒会長候補に選ばれました。生徒会長候補は6年生の各学級から一人ずつ選ばれますが、誰が生徒会長になるかはあらかじめ職員室で決まっていました。出来の良い、物わかりのよい生徒が選ばれるのです。

私は確かに出来は良かったのですが、物わかりはまったく良くなかったのです。しかし賢明な私は選挙作戦を工夫しました。私は考えたのです。どうせ男子生徒は先生の言う通りの候補に入れる。問題は女子票だ。

そこで私は全校生徒が集まる候補者演説会にスーツとネクタイをバシッと決め、髪を七三に分けて臨みました(今は禿げてしまいましたが)。そこで「自分が生徒会長になったら、生徒会としてバレーボール大会を実施します」と具体的目標を打ち出したのです。

その夕方判明した選挙結果では、教員室が推薦した候補を遙かに上回って私が当選しました。翌朝担任がクラスに入ってくるなり私を指さして、「私はあなたを絶対に認めない!」と叫びましたが、私はフンとせせら笑っただけでした。

私立東邦中学校では、剣道の教師と対立しました。東邦中学校では全員が柔道か剣道のどちらかを選択する決まりで、私は剣道を選んだのですが、剣道場には神棚があり、授業の前に必ず「神前に一礼」しなければなりませんでしたが、私はそれを拒んだのです。なぜ一礼しないのかと問われて私は答えました。

日本国憲法は信仰の自由を定めている。私は神道を信仰していないので神前に礼はしない。

剣道の教師は怒り狂い、私に本気で剣を打ち込んできました。それを私は全て外したのです。教師は猛々しく「何故外す!俺を打ってみろ」と挑発しましたが、私はまたもせせら笑っただけでした。

県立千葉高校時代、東北大学時代は幸か不幸か、私が社会や学校と対立した記憶がありません。県立千葉高等学校や東北大学は、学生を理由もない校則で縛るような学校ではありませんでした。そうそう、一度だけ、千葉高時代、トレンチコートを着て通学していた私を教師が校門で咎めたことがありました。しかし私は「トレンチコートはどの校則に違反していますか?」と聞いただけで、口をあんぐり開けている教師を尻目に、コートをはためかせて教室に入って行きました。

医学部を卒業し、医者となった私はまず初期研修を受けました。私の研修先は民医連の坂総合病院です。

しかし大学を卒業して民医連で初期研修を受ける前、私はガルバチョーフ時代のソビエトを列車で一ヶ月掛けて旅しました。当時の私は今よりロシア語が堪能だったので、列車の中やレストランなどで色々なロシア人と話をしました。

記憶に残っている会話はこれです。

シベリア鉄道に乗り合わせたコルホーズ長、かなりの年配でした。多分今の私と同じぐらいだったかと思います。かれは私にガルバチョーフの悪口を散々言い立てました。彼の主張は、ガルバチョーフは経済がまったく分かっていないという事でした。私もそれには賛成せざるを得ませんでした。何しろシベリア鉄道の東の起点ハバーロフスクではもはやルーブルが貨幣の意味をなさず、人々が争って外国たばこを求めていましたから。

しかししばらくそのコルホーズ長の話を聞いた後、私は彼にロシア語でこう言いました。

「でも今あなたはこうして列車の中で見知らぬ外国人にソビエト共産党書記長の悪口が言えるようになりましたね」。

するとそのコルホーズ長は沈黙し、ややあって重々しくつぶやいたのです。

ダー。エータ バリショイ ジェーラ。

そう、それはとても偉大なことだ。

民医連に初期研修に入って数ヶ月後、私のアパートに指導医が二名尋ねてきて共産党に入らないかと勧誘しましたが、私のこのソビエト旅行の体験を聴いて、口をあんぐり開けて帰って行きました。

坂病院で一番私が対立したのは当直明け問題です。研修医は月に3日も4日も当直が入ります。そのたびに翌日はフルで働かされるのです。

ある時私は事務職員に「病院の規定ってありますか」と聞きました。そうしたらその職員は何気なく「はい、あります。これですよ」と渡してくれたのです。そうしたら、その規定には「当直明けは休みとする」と明記されていました。

私はその規定をもとに「次の当直から私は翌日は休みます。だって病院規定にこう明記されていますから」といいました。

病院は、本当に私がそれを実行するのかどうか見守っていましたが、次の当直の翌日、私は当直が終わったらただちに帰宅しました。「後は宜しく」と言って。

病院中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。遂に私は「坂病院友の会」という患者会に呼び出され、「何故当直明けに帰ったのか」と患者達に詰問されました。今でも共産党がお得意の査問です。しかし私はしれっと「病院規定に定められていますから」と答えました。するとハゲ茶瓶の爺さんがハゲ茶瓶から湯気を立てて、「あんたは医者のくせに患者をなんとも思っていないのか!」と怒鳴りましたが、私は涼しい顔をしました。

初期研修が終わった時、私は漢方に関心がありました。しかし当時、漢方を指導してくれて漢方をテーマにした医学博士を取らせてくれる大学はありませんでした。色々な人に相談したところ、「東北大老年科の佐々木教授ならあるいは」というのです。東北大はたまたま私の母校でしたが、私にとってそれは二の次でした。老年科の佐々木教授のところにお邪魔して「漢方で医学博士を取りたいのですが」というと、佐々木先生は即座に「いいんでねべが」といってくれました(秋田弁なのです)。

しかし実際に私が東北大老年科に入局してみると、周りの人々は一様に「そんな漢方なんてまじないのようなもので東北大の学位は取れない。まず西洋医学の研究で学位を取りなさい」というのです。「いいんでねべが」と言ってくれたのは佐々木教授ただ一人だったのです。

しかし私はそれなりに研究に励み、高齢者が起こす誤嚥性肺炎のモデルマウスに清肺湯という漢方薬入りの餌を食べさせると肺の炎症が軽くなり、死亡率も下げるというデータを出し、学位審査に臨みました。

その時、審査委員長は開口一番「私はこの研究が何故東北大の学位審査に掛けられているのか理解出来ないのだが!」と言い放ちましたが、すかさず後ろの席にいた佐々木教授が「オホン!」と一つ咳払いをし、後は滞りなく学術的な議論を経て、私は東北大開闢以来初の「漢方をテーマにした医学博士」になったのです。

それからも、私の人生は茨の道でした。西洋医学の人々はどれほど私が漢方について客観的なデータを出しても頑としてそれを認めようとしないし、逆に漢方の「お偉いさん」たちは「漢方は術じゃ。そんな西洋医学の手法で効果は証明できん、フガフガ」と言いました。

私が認知症の患者がよく起こす精神不穏や幻覚、妄想などBPSDと呼ばれる症状に抑肝散という漢方薬が有効であることを日本東洋医学会で発表したら、なんと座長が「こんな発表は意味が無い」と言い放ちました。しかしその研究論文はJ Clinical Psychiatryという世界の精神医学でトップの医学雑誌に載ったのです。

東洋医学会はその後も私の研究業績が増えるごとに私を嫌い、遂に私を東洋医学会から追放しました。破門されたわけです。

しかしその後も私は漢方のエビデンスを次々発表しました。抑肝散の研究がもっとも有名ですが、半夏厚朴湯が高齢者の誤嚥性肺炎を減らすこと(JAGS, アメリカ老年医学会雑誌に掲載)、漢方の「気滞」という診断の新基準を客観的な方法で作ったこと(世界30以上の医学論文で引用)、加味帰脾湯という漢方薬は抑肝散同様認知症のBPSDに有効であるが、同時に認知症高齢者の鬱や意欲減退にも有効で、挨拶する、感謝するなど望ましい感情表現を回復させることなど合計49本の漢方や中医学に関する英論文を発表したのです。その一番最近のものは、JAMA(アメリカ医学会雑誌)に載った鍼灸の論文に対するコメントです。たかがコメントというかも知れませんが、世界三大医学雑誌の一つであるJAMAともなると、コメントが載るだけで極めて稀です。

またBritish Medical Journal (BMJ)はWHOが計画した「世界の伝統医学は医学のどんな領域にどれほどエビデンスがあるか」という調査研究の方法を述べた論文に対し、私にreview、つまり査読を依頼してきました。世界の伝統医学全体を見渡した調査研究の是非や問題について内容を吟味出来る人間は、そう多くはなかったのでしょう。

面白いことに、こうして私の業績が上がって増えるほど、私の敵も増え、私を避ける人は一層増えていきました。JAMAとかBMJとかWHOなどは私を一流の伝統医学研究者と看做すようになりましたが、そうなればなるほど私を嫌い、避ける人間は増えたのです。

私はもう59になりました。その59年間、私はずっとこのようでしたから、私を嫌い、避ける人間が増えることを私は全く意に介しません。いくらでも嫌えば良いし、いくらでも避ければ良いのです。ガリレオ・ガリレイが言った通り、

E pur si muove(それでも地球は回る)のです。

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