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日本東洋医学会初代理事長龍野一雄氏の名誉回復を求める

日本東洋医学会は日本に於ける伝統医学を代表する学会であり、ここが認定する「日本東洋医学会認定漢方専門医」は国から専門医として標榜が認められている。然るに、日本東洋医学会の歴代理事長、会長の名前は学会HPにも記載がない。その理由は、初代理事長であった龍野一雄氏の名前を出せないからだ。

日本東洋医学会の初代会長(当時は理事長)は龍野一雄であった。しかしながら、龍野一雄が日本東洋医学会初代理事長であったことは、日本東洋医学会の文献からは一切消去されている。この事実を初めて公に指摘したのは山本巌であった。しかしながら、1960年に発表された「日本東洋医学会誌第一巻復刻の辞」には、編集委員長 理事長 矢数道明の名を以て


「本会の創立は昭和25年(1950)3月12日であつた。当時はなお敗戦後の物資不足,交通難,住宅難等戦禍の余儘を残し混沌たる状況下にあつた。 前年横浜市郊外の疎開地より文京区に新居を構えた龍野一雄氏の奔走に より,昭 和24年10 月学会準備委員会が生れ,協議の結果 日本東洋医学会としての機構が成立した。本部を千葉医科大学附属病院内東洋医学研究室内に置き,龍野氏宅を事務所とし,努力のすえ、昭和25年3月12日 慶応義塾大学医学部北里図書館会議室に於いて発会式を挙げ,記念すべき創立総会が開かれたのであつた。 創立時の会員数は名誉会員31名を加えて合計98名に過ぎず,会計面も頗る困難で、研究発表は龍野理事の労力奉仕による孔版印刷会報に拠つていた。」

とある。この文章からして、日本東洋医学会初代理事長が龍野一雄であったことはほぼ間違いない。それにもかかわらず、日本東洋医学会のHPには、龍野一雄初代理事長の名前は一切表記されていない。初代理事長の名前を記せないため、日本東洋医学会のHPには歴代理事長・会長の名前がないという、極めて異例な事態が生じている。龍野一雄氏が日本東洋医学会初代理事長であったことは唯一「慶應義塾大学医学部漢方医学センタ−」のHPのなかの「センターの概要:慶應義塾大学と漢方」に2009年2月2日には記載があったが、それも現在は消されている。その理由は、龍野一雄初代理事長が「漢方、学たるべし」と唱えたからだ。


昭和16年(西暦1941年)1月15日発刊の「東亜医学第二十四号」において、龍野一雄は「竹山氏に呈ずる第二報」という論考を載せている。この中で龍野一雄は「少数の漢方医家の経験では量的なものにならない。また臨床の優劣は個人差の多い臨床技術によって左右されそれを統計的に比較することは無謀で水掛け論に陥るのが関の山だ」と、現代のEBMに通じる指摘を行っている。そして「漢方がどさくさ紛れに膨張するなどと言う方法は漢方の将来性を危うくする」と、まさに現在の日本漢方の有様を予告するかのような警鐘を鳴らした。そして、「漢方のための漢方とか現代医学のための漢方とか言うのではなく、自己を止揚して新しく生まれんとする医学の為である。その場合過去及び現在の漢方が全く歴史的のものとなってもそれは決して厭うべき事ではない」と断言した。ここで龍野一雄が反論を試みている竹山という人物についての詳細は現時点では不明だが、少なくともこの文章を読む限り、日本東洋医学会初代理事長龍野一雄は明らかに「漢方は学として発展するべきであり、その結果過去、現在の漢方が歴史的なものとなっても厭うものではない」と明言している。今の日本東洋医学会の態度を考えれば、これは驚くべく科学的な主張であり、要するに「漢方、学たるべし」という主張である。学問である以上はその研究発展によって自己の過去や現在が「全く歴史的のもの」となっても構わない、と言うのである。こういう龍野一雄初代理事長の主張は、現在の日本東洋医学会には全く覧られないものである。だからこそ彼は学会の歴史から消されたのだ。そして、こうした龍野一雄の姿勢が「術ありて後に学あり、術なくて咲きたる学の花のはかなさ」と主張した大塚敬節と正面から対立するものであったことは言をまたない。

私が東北大学医学部を卒業したのが1990年で、東北大学大学院に入学したのが1993年だ。その1993年という時代に「臨床に於ける治療効果は量にして、統計的に判定すべきだ」と主張していた人間は、日本のみならず、世界中に一人もいなかった。カナダのガヤットらがEBMを提唱したが1991年であって、その2年後である1993年にはまだ彼らの主張は世界的には受け入れられていなかった。それなのに何故、1941年に龍野一雄は「臨床治療の効果は量にして、統計的に判定すべきだ」と考えたのだろうか。これは医学の謎である。しかもその龍野一雄は西洋医学は修めたが、自分の専門フィールドは漢方だと考えていた人物であった。すなわち、1941年という信じられない時代において、日本の漢方医が「臨床治療の効果は量にして、それを統計的に判定すべきだ」と述べたのだ。これは、驚嘆すべき事だ。EBMが世界で初めて提唱された年の50年前だった。

大塚敬節など、当時の日本の漢方医が龍野一雄を理解出来なかったのは驚くに当たらない。50年時代を先んじていた人物は、同時代人の理解を超えていた。しかしながら、現在は2025年だ。すなわち、龍野一雄が時代を50年先んじてそのような主張をしたときから、85年が経った。今こそ我々は、龍野一雄の名誉を回復し、日本漢方を代表すると自他共に名乗る日本東洋医学会が龍野一雄初代理事長のこの驚くべき先見性が如何にもたらされたのか研究し、世界に発表すべきだ。なぜなら龍野一雄が1941年に述べた「治療効果は量にして、統計的に解析すべきだ」という主張は、EBMの提唱に50年先んじており、しかもそれは西洋医学からではなく伝統医学の立場から主張されたのだから。

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