震災復興事業を雄勝から見た

これから思いっきり辛口を書きます。色々な関係者が怒るでしょうが、私は怯みません。いくらでも私を非難して良いし、あゆみ野クリニックに怒鳴り込んで戴いても結構です。



東日本大震災は2011年3月に起きました。想像を絶する天災でした。あっという間に2万人近くが死んだし、その後の関連災害でもさらに数万人が死にました。死ななくても家を失い、家族を亡くし、苦しみと哀しみのどん底においやられた人の数は数えきれません。


その震災復興事業の完成式が数日前に執り行われたそうです。


震災復興事業の完成・・・。ふざけるな!と私は叫びます。



2016年12月、私は石巻市立雄勝診療所長になりました。私が診療所長を務めたのは、概ね7か月でした。夏のボーナスを貰って辞めたからです。



2016年から2017年前半、私は石巻蛇田のアパートから雄勝に通いました。雄勝は今では石巻市の一部ですが、昔は雄勝町だったんです。石巻から雄勝に行くには、北上川の堤防沿いの道を走り、ちょっとした山をトンネルでくぐらなければなりません。毎朝そのトンネルをくぐる時、私はまるでホグワーツ特急に乗るためにロンドンのキングスクロス駅の9と4分の3番線にたどり着くために魔法使いが石の柱をくぐるような感覚を覚えました。まさに現実世界から雄勝という魔法の世界に行くような感覚でした。



そうですね。



当時の雄勝には、プレハブの診療所があり、震災当初赴任した医師が海外派遣し、その後を継いだ医者の評判があまりに悪かったので私が後任になったのです。



震災前の雄勝の人口は4千人です。しかし不幸にも雄勝の市街地は港を中心にしていたので、あの津波でそっくりそのまま、全部やられたのです。町そのものが全て消滅しました、当然旧雄勝町立病院も消えたのです。



それで、震災直後に雄勝に入った医師が石巻市役所を動かして出来たのが雄勝診療所です。その先生の名前は覚えていません。雄勝の人に訊けば分かるでしょう。レジェンドですから。


その医師が「もう良かろう」と見極めて雄勝を去った後、雄勝診療所には碌でもない医者が派遣されました。石巻市立病院院長のお気に入りでしたが、どう考えても市立病院にはおけないので、雄勝に流されたのです。その医者は、雄勝の診療所長に島流しをされてすら悪事を働きました。当時発売されたばかりの糖尿病薬フォシーガを「やせ薬」として売りさばいたのです。



フォシーガは今でこそ心機能保護作用がある糖尿病薬として一定の評価を得ていますが、当時は「得体の知れない薬」でした。製薬会社はフォシーガでググればすぐ分かります。しかしフォシーガは確かに体重を減らします。それを良いことに、その医者は雄勝にフォシーガを売りさばきました。もちろん製薬会社の主催する講演会で講師になって、講演料を貰ったのです。



私が雄勝に赴任したのは、その医者の悪評があまりに酷く、これ以上そいつを雄勝におけないとなった時です。私はそもそも石巻市立病院の職を希望したのですが、身体の都合で当直が出来ないと言ったら、雄勝診療所長はどうかと言われました。



まずは現地に行ってみて、と言うことで私は雄勝診療所に行きました。そしてすぐ理解したのは「これはしんがりだ、撤退戦だ」という事でした。



当時既に私は孫子を読んでいたので、攻撃するより撤退する方が遙かに難しいことを理解していました。そして雄勝診療所長というのは、まさに撤退のしんがりだと理解したのです。



私は雄勝に7か月いただけです。正直なことを言うと、当時雄勝で「まだまだ」と頑張っていた人々がいて、私はその人々に「これは撤退戦です」と言えなかったのです。あるとき雄勝総合支所の保健師であり福祉介護の総まとめをしている女性から「先生の意図が分からない」と言われました。酒の席なら本音を明かしたかも知れませんが、それは素面の場だったので、「そうか、分からないか」と言って私は答えを濁してしまいました。何とかして雄勝の医療福祉を守りたいと必死になっていた人に「撤退戦だ」と言えなかったのです。



そもそもプレハブの診療所があっても、薬局がないのです。プレハブの診療所で院内処方が出来るわけが無いです。薬棚のスペースすら無いんだから。それで、地域外のある薬局が義侠心で雄勝に薬を配ってくれていました。



処方箋というものは、法律上患者本人が薬局に持っていく決まりです。しかしその薬局は雄勝にはないのです。どこかはもちろん書きませんが、要するに遠方の薬局の薬剤師が義侠心で雄勝診療所の処方箋を受け、車が無い雄勝の高齢者に薬を配っていたのです。



日本国の法律に従えば、これは完全に違法です。しかし震災が2011年、私が雄勝に赴任したのが2016年。その時点で、まだ雄勝は合法的に医療が出来ない状態でした。



当時の雄勝は、一言で言えば工事現場です。町全体が全て工事現場でした。赤土を盛り上げて巨大な高台を築き、その高台と周辺部落(東北で部落というのは単に集落です。差別的な意味はありません)を結ぶための目もくらむような高架道路。そして巨大な堤防。



その内側には、生徒数20人のためにそもそも震災の被害を受けなかった二つの学校を潰して新しい学校が建設され、保育所と診療所が建てられていました。全て檜造りです。雄勝総合支所に「あの保育所に入る園児は何人ですか」と訊いたら「20人です」という答えが返ってきました。しかし私は診療所にいながら地域訪問診療もしていたので、到底雄勝に20人もの保育園児がいるとは信じられませんでした。問い詰めたら、「20人というのは収容人数です。今の予定者は4名です」というわけです。



二つの学校の校医は私の役目でした。生徒が健康診断に来ます。全部で20人弱でした。聴診は良いのですが、体力テストには困りました。面倒な記載基準があるのですが、結局私は20人の生徒を集め、診療所の駐車場を一回り走らせ、皆走れたから合格にしたのです。



だからなんだっていうのでしょう?



要するに当時の雄勝はホグワーツでした。日本の法律が及ばない、魔法の国だったのです。



雄勝は今石巻市雄勝地区です。だから石巻市の震災復興事業が完成したということは、雄勝のあの馬鹿げた復興事業も終わったんです。先ほど私今の雄勝の人口をグーグルで調べましたが、1062人でした(石巻市発表データ)。1062人の集落は、復興しません。復興最低ラインを遙かに割っています。確かに今でも雄勝産の牡蠣やホタテ、ウニは仙台国分町でも名産ですが、それを採る漁民は概ね石巻の蛇田辺りの発展地区に住んでいます。そこから毎朝雄勝漁港に通勤するのです。車で約1時間ですから。



おそらくこの雄勝のあり方は、今後の日本における一次産業の先駆けになるでしょう。つまり農民、漁民は都市に住み、生産地に通勤する。生産地と居住地は別れる。生産地は生産地として整備すべきだし、居住地は居住地として整備すべきなのです。



まあ、出来てしまった高台にはいずれぺんぺん草が生えるのだろうし、一台も車が通らない高架道路はいつかは朽ちるのでしょう。それはもうしかたが無いです。もちろんそれは復興税という我々の税金で作られたのですが。私としては、震災復興事業完成記念式典をやるより、この復興事業が如何に愚かであったか、如何に馬鹿げていて、将来の展望を欠くものであったかを是非検証していただきたいと願っております。



石巻市

あゆみ野クリニック院長

岩﨑鋼



https://www.ayumino-clinic.com


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