日本製紙
今日、あゆみ野クリニックに日本製紙から3人目の心療内科受診があった。さすがに3人目ともなれば捨て置けない。こうして企業名を公開する。
日本製紙は製紙業では日本第二の大企業だ。世界的にも、製紙会社としては世界第8位だそうだ(Wikipedia)。石巻に拠点を持つ企業の中では唯一の一部上場企業である。ところがそこから、今日で3人、労働問題で心を病んだ患者が来た。
あんな大企業が、いったい何をやっているんだろうと、先ほど「日本製紙」という会社について調べてみた。そうしたら、日本製紙の直接の前身は十條製紙だが、そのもともとは、渋沢栄一が三井と組んで1873年(明治6年)に設立した「王子製紙株式会社」であったことが分かった。
それで、合点がいった。そもそもが、官僚から資本家に転出した渋沢栄一が三井財閥と組んで立ち上げた会社だ。つまり職種は違えど、「女工哀史」の舞台と同じような会社であったという事だ。設立当時からして、労働者を虫けらのように搾取するのが当然という体質の会社なのだ。
渋沢栄一を美化したり理想化する風潮があるが、人間はその発言ではなく、行動を見た方が良い。
渋沢栄一は、元豪農の生まれだった。農家であったが、豪農だったので苗字帯刀を許された。そして明治維新の時、最初は尊皇攘夷を唱えたが、機を見るに敏で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の家臣になった。幕臣としてパリ万博に派遣され、ヨーロッパ文明に接した。
明治2年には今度は明治政府に招かれ、民部省の役人として税制に関わった。その間、彼は富岡製糸場に従兄を初代場長として送り込んでいる。この富岡製糸こそ、あの「女工哀史」のそのままであった。彼は大蔵省で出世したが、あることで権力者と意見が対立し、退官。実業界に身を転じた。三井財閥と組んで様々な銀行や会社の設立に関わった。その渋沢栄一が設立に関わった会社の一つが王子製紙だ。つまり、彼は終生、よく言えば「機を見るに敏」、露骨に言えば「今どこに権力があるか」を察知して、上手く一生を泳いだ人物だ。
渋沢栄一は今年なんと万札の顔になったが、彼を賞賛するのは危険である。渋沢英一が高級官僚から実業界に転出して活躍した時代というのは、まさに戦前の日本。労働者などは虫けらのように扱われ、死ねば死んだきり。小林多喜二が描いた「地獄に行くぞ」の時代であった。渋沢栄一という人間は、小林多喜二のペンに掛かれば「地獄絵図」の企業を次々に設立した人間だったのであって、老年になって医療や福祉,教育に関わったからと言って、彼の社会的犯罪は否定出来ない。
そういう人物がそもそもの会社を設立した、その末が今の日本製紙なのだ。それなら、あれほどの大企業なのにこんなちっぽけな場末のクリニックに三人も労働問題で心を病んだ労働者が来たというのも、合点がいく。三人の状況は、いずれも、一部上場の大企業としては驚くべく酷いものだった。一帯何故これほどの大企業から労働問題で心を病んだ患者が来るのか不思議だったが、今日ついに三人目が来たので日本製紙のそもそもを洗ったら、なるほどあの渋沢栄一が立ち上げた会社が元なら、それはこう言う労働環境だろうと合点がいった次第であった。
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