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初盆
スナップショット
※追加
例えば、小学生の頃忘れ物をして、昼休み一人取りに帰された時のあの路上の感じを〝旅情〟と言おうか。
大阪の路上にかつての自分を置いてみる。歩き疲れて入った喫茶店、フラスコへ注がれる黒い液体、そこに写る自分の顔を眺めていると、焦点がぼやけ、過去の記憶がイマージュとなり散在する。
あの喫茶店はどこにあるのか? あの路上の断片はどこにあるのか? 街中をほっつき歩くが、風景は別のものに入れ替わっている。いま船場をウロついたところで、谷崎潤一郎の『細雪』の面影はない。それなら感傷的な投影を捨て、あるがままに事物を写すことにする。
写真は現実の人や物を盗むことによって成立するメディアであり、写真家は現実にある断片を盗み出し、それを世界からひきはなして引用し、もう一度現実に送り返すことで自分自身への批評を目論む者でなければならない。
そのようなことを中平卓馬という写真家が書いているのだが、果たして写真はそれだけなのだろうか?
記録することで、記憶にそなえる。
私がある記憶を見つけたり、自分の生涯の一時期を思い出したりしている時、カメラのピント合わせのように意識は現在から離れ、過去の領域に身を置き直しているように思えるが、撮った写真を保存するアルバムはどこにあるのだろうか?
百歳で亡くなった祖母を看取ったのは河内長野に住む叔父・叔母である。その家には、子供の頃から毎年のように遊びに行っていた。先日、初盆で親戚が集まり、思い出話に花が咲いた。
夏休み、どこかの博物館に行く途中で弟が車から落ちて死にかけたよね、とか。駐車場で叔母が祖母の足を踏み潰したよね、とか。よくある話しだが、盆や正月に親戚が集まり思い出話しに花を咲かせているとき、人はそれぞれ過去の記憶を再生しているように思える。
各々が語る記憶の断片が保存されているメモリーはどこにあるのだろうか?
ベルクソンは『物質と記憶』で失語症を研究しながら、脳の中には記憶が蓄えられる部位などあるはずないと実証したが、それなら撮った写真はどこに保存されているのか? そのような問いに対し「それは言葉の戯れ」に過ぎないが、強いて答えよと言われれば、純粋に比喩的な意味でだが極めて率直に「記憶は精神の中にある」 と答えた。
過去の断片が保存されているメモリーは脳内にはない。
意識ほどわれわれに直接な与件はないし、明らかな現実はない。
人間の精神とは意識自体であり、意識とは、何を置いても記憶の作用を意味するのだ。
ベルクソンは失語症を研究し、脳の損傷による記憶の破壊と言われているもは、記憶が現勢化する連続的進展の中断にすぎないと結論付けた。
オーケストラのシンフォニーは様々な楽器の総合で奏でられる。どの瞬間どの音を出すか操作しているのは指揮者の指揮棒である。脳の役割がこれである。今この瞬間「生活への注意の器官」として脳はたったひとつの音色(例えばトランペットの音)だけを指揮している。近代科学は、このたった一つの音色の反復可能性だけを計ってきた。しかしオーケストラの楽器は他にも様々ある(トロンボーン、サックス、チューバ、バイオリン…)すべてを奏でたシンフォニーは意識自体=精神=記憶であり、通常われわれの生命はその音を聴くことができない。
ところが、われわれは生活する中で何かの拍子で指揮棒のリズムが変わり、生活への注意力が弱まることがある。そのとき記憶力の変化でシンフォニーが鳴る。過去が保存されているメモリーを分子変化として脳の中に置くというのは、単純かつ明快な仮説のように思えるが、音自体は大脳皮質の内部には存在しない。精神が純粋記憶に触れたとき、幻聴、幻覚、あらゆる幻は現れるのであり、人間の身体を超える記憶というものを常識の範囲で考えるなら、肉体の滅びたあとに魂が生き残るという非科学的な考えも自然である。
そなんことを言ったら、マテリアリズムからスピリチュアリズムだと批判されるのだろうか? それならスピリチュアルとは何か? それは非科学的な言説であると科学は言う。それなら科学とは何か? ガリレオ以来、近代科学は人間のあらゆる経験をたった一つの領域に縮小させることで自らを強力なものにしてきた。
科学は観察と実験の手続きを取り上げて、それを「私の経験」に適用するのではなく、「全体のたった一つの経験」つまり「計量」に向けて集中させることにより、月へ到達した。それは科学の成果である。そして現代は科学から外れる物事にスピリチュアルと名付ける。ところが素朴な常識を使い考え、精神的なものの本質を「計量」に委ねることができるだろうか? もちろんそれができると科学は言う。科学はそれをやりたがる。そして科学は人間の脳が意識と関係していることをとらえ、脳内物質と分子運動についての力学的な諸事実を解明する脳科学の道を選び、精神現象をそれと同等に「計量」できる現象だけに置き換え満足している。
二つの「記憶力」
脳の中には記憶が蓄えられる部位なんてあるはずもないが、しかし、脳を記憶の貯蔵庫だと考えるのをやめた場合、既知の諸事実はどのように理解されるようになるのか? この点を探究するのがベルクソンの哲学である。
まずはっきりさせておかなければならないのが、記憶というのは物自体であり、記憶力というのは人間に属するものである。
イマージュとは、眼をあければ物が見え、眼を閉じれば見えなくなるというわれわれの素朴な経験であるが、私の身体もまたそのなかにあるイマージュであり、例えば私の脳というイマージュにほんの微かな変化が起れば、私が世界の知覚と呼んでいるイマージュ体系も万華鏡を廻す様に変化する。
われわれが今この瞬間に知覚するとイマージュは現われ、記憶力が動くが、『物質と記憶』を読む限り、人には二つの記憶力がある。
その前に最近の出来事からたとえ話を二つ。
(例1)
息子は毎朝母親にせかされている。お箸出しなさい。プリント出しなさい。早く着替えなさい。歯磨きしなさい。ご飯食べなさい。分かったの! はーい。と言いつつ二秒後にはCreepy Nutsを口ずさむ。「ぶりんばんばんぶりんばんばんぶりんばんばんばん」「話聞いてるの!?」小2男子の意識の流れなんて大体それくらいぼんやりしているものではないだろうか? 彼に「生活への注意力」なんてない。そして年齢、性別、個体により意識の流れはそれくらい異なるものだ。遅刻してもいいじゃないか。だるいなら休んでもいいじゃないか。いいえいけません。そんな「今」だけを生きる意識だと、彼は人間社会から外れてしまうから…
(例2)
見知らぬ土地を一人で旅していて、普段の生活とは異なる情景に出会い、外界が夢のように奇妙な様子で眺められ、自分が自分から遠くなっていくような不思議な感覚におちいったことはないだろうか? そしておそらくその感じこそ「生活の不注意」からおこる害のない意識の状態(日常から旅常)なのではないだろうか…
ベルクソンは、第一の記憶力を「日常生活における直近の未来に対する私の態度」と定義する。
この記憶力は朝食、着替え、歯磨き、登校と切迫した行為のため使われるものであり、このとき生まれかけの感覚になれる記憶は、私の行為に協力し、この態度にはまり込めるもの、つまり有用になれる記憶だけである(トランプの神経衰弱などはこの記憶力を使っているのではないだろうか)
「生活への注意力」のため、われわれの記憶力は無意識に現在の行動に適さないものを意識から遠ざけるが、このとき現勢化される記憶は、過去の真の記憶の状態を去ることで、私の現在の一定の部分と一つになることができるようになる。
このように、生活のための行為に使われる記憶力は、真の記憶とは根本的に異なっていて、第一の記憶力だけを使い生きる人間は、自分の本当の生を表象しないまま、絶えず演じるばかりだとベルクソンは言う。
なるほど、この記憶力だけを極端に使い生活するのがコスパ重視のファスト人間、彼らの生命は目の前の刺激を適切な作用へと引き延ばす有用な習慣の坂をたどることしかしないだろう。習慣的な記憶力にだけ動かされている人間は今の状況の中にそれが以前の状況と実践上の意味で類似する側面ばかりを見分けるだけだろうが、生命にはこれとは異なる第二の記憶力がある。
息子の純粋持続はCreepy Nutsである。なるほど、ぼくはこの記憶力について以前書いたような気がする。川端康成という生命力が分かりやすいそれである。
ベルクソンの言う第二の記憶力は「日常生活の行為から身を引き離し、無用なものに価値を与え、ただ夢見ることを欲する」ものである。
この記憶力が現勢化するには、彼は生活にたいし無関心でなければならず、そのように自分の生をしっかり生きず、ただ夢見るような人間は、これまでの自分の全歴史をいつも視界に収めているのだと言う。
神経繊維末端の樹状突起とローランド帯の運動細胞との間に介在する細胞は、脳が受けた振動を脊髄の運動機構へと届け、自らの結果を選択できるようにするが、すると脳は一種の中央電話局のようなものであり、その役割は「連絡をつける」こと、あるいは「連絡を待たせておくこと」である。
第二の記憶力は前方への運動のために人を行為に向かわせる第一の記憶力により常時妨害されていて、脳のメカニズムは人から過去を覆い隠し、現在の行動に役立つものだけを見せることにある。
ところが何かの偶然により(旅常、アルコール、ドラッグ)閉ざされていた電話のベルが「通信」状態になったとき、これまで力づくで前を向かされていた記憶力(生活への注意力)は緩み、後ろを振り返ることになる。そのとき意識は見ても何の利益にもならないものを見るようにそらされるだ。
それは幻ではなく現実である。
しかし、このように記憶力が二つの極端な状態を示すことは例外的であり、通常生活においては、二つの記憶力が内的に浸透し合い、ともに自分の純粋性をいくらか放棄し、二つの流れが合流するところに一般観念が現れる。
われわれの意識の状態によって二つの記憶力の動きは異なり、夢見る意識は過去のイマージュに呼び起こされる(あるいは生活の意識、行動の意識、近未来の意識に邪魔され呼び起こされない)こう考えると、イマージュは過去と未来の間で揺れていて、意識や身体が行動に向かうなら「未来のイマージュ」へ、それが観照するなら「過去のイマージュ」へ、夢見る状態、夢の中そのものへ向かうのだが、覚めた状態で夢見る人間は狂人と紙一重なのかもしれない。現代ならそれに統合失調症の名をつけるだろう。
フロイトも『夢判断』の中で、この記憶力に言及しているように思う。
創造的な頭脳の人間においては、悟性は自分の番兵を入り口のところに立たせてはおかない。だからいろいろな考えがわれがちに乱入してくる。そうさせておいてからはじめて、悟性はそういう想念の大群を眺め渡して検査するのだ。(中略)そういう想念こそすべての独創的な芸術家に見いだされるものであり、そういう想念が永く続くか短く終わるかが、思考する芸術家を夢みる人間から区別する当のものなのだ。(中略)「番兵を悟性の入口から引きしりぞかせること」、つまり批判を交えぬ自己観察の状態に自分を置くことは、決してむずかしいことではない。
主人を見て尾を振る犬の態度は主人との間の親しい関係により次第に出来上ったものである。こんな面白い現在から何が犬を引離し過去に向わせるだろう? 人間だけが無用なものにも価値を見附ける事が出来る。犬の記憶は常に現在に立ち、未来を望む行動に傾く習慣的なものである。人間にあっても過去に後退し、過去を眺めるのは例外的な事で、生活に適した習慣的な記憶により阻止される傾向があるから、目覚めたまま模範的な記憶に出会うのは狂人である。さらにベルクソンは『創造的進化』で植物のクロロフィルの働きに着目し、タガが外れた記憶力(物自体)に迫る。
われわれの分析が正確ならば、生命の起源にあるのは超意識である。それは花火で、その燃え尽きた破片が落下して物質になる。花火そのもののうち、打ち上げられたあとも燃え残り、有機体と化すのも意識である。しかしこのような意識は創造への要請であり、創造が可能である場合にしか自分自身に姿を見せない。生命が自動機械にならざるをえないとき意識は眠っている。神経系を備えた動物において意識は感覚の通り道と運動の通り道の交差点、つまり脳の複雑さに比例するが、意識はニューロンにつなぎ留められていて、それらの働きからまるで光のように浮かび上がるとするような理論は、分析の細部については学者に受け入れられるかもしれないが、それは便宜的な表現方法でありそれ以外のものではない。人間において意識は何よりもまして知性と言われるが、それはまた直感でもありえたし、そうでなければならなかったように思える。直感と知性は、意識の働きの相反する二つの方向を表している。直感は生命の方向そのものへ進み、知性は逆の方向へ進んでいる。このようにして、知性は全く自然に物質の運動に自分を合わせる。われわれが属している人間性にあって、直感はほぼ完全に知性の犠牲になっている。それでも、直感は存在している。ただし、漠然としていて、何よりも非連続的なものとして。それは、ほとんど消えかかったランプで、所々でしか、ほんのわずかな間しか、再び火がともることはない。ただ、結局のところ、生死に係ることが問われている場合、このランプに再び火がともされる。われわれの人格性について、われわれの自由について、自然全体の中でわれわれが占める場所について、われわれの起源、そしておそらくわれわれの運命について、そのランプが投げかけるのは弱い揺らめく光だ。それでも、知性がわれわれを置き去りにした夜の闇に、この光が差し込んでくることに変わりはない。意識は本質的に自由なのである。意識とは自由そのものである。
写真は日付と場所を記録し、未来の記憶力にそなえる。
私ではなく世界が語りはじめる瞬間を組織するのが写真家の仕事であり、自らの生によって縛られ、自らの存在を自らが創りあげてゆく中にしか視点は存在しないと中平卓馬は書く。
記憶は現在から過去への背進ではなく、反対に過去から現在への前身なのだとベルクソンは書く。
今日もスナップショットを撮り、思い出をつくる。
見知らぬ者を知人のように、
知人を見知らぬ者のように、
〈世界〉を〈私〉を観察し、
凝視するのだ。
ブレヒト
この記事の続編のようなもの(物質と記憶まとめ)