純粋実践理性の根本法則 72-78頁
君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。
純粋実践理性においては、無条件的(アプリオリな実践的命題)な実践的規則が「絶対に或る仕方で行為すべし!」と命じられ、この意志は、この実践的命題によって客観的に規定され、この場合、それ自体実践的な純粋理性が直接に法則を与える。
この意志は、経験的条件にかかわりのないものとして、つまり純粋意志として法則の形式だけによって規定されており、この規定根拠は、およそいっさいの格律の最高条件と見なされるのである。
このような根本法則の意識は理性の事実であり、このような法則はいかなる純粋直観にも経験的直観にも基かないアプリオリな綜合的命題として、それ自体だけで我々に迫ってくる。
もし我々がここで意志の自由を前提するとしたら、この命題は分析的命題になるだろうが、しかしそうなると積極的概念としての意志の自由を認めることになり、そのためには知性的直観(悟性そのものによって与えられる神の直観)を必要とするであろうから、そのような直観を想定することは許されない。
それでもこの法則を誤解を招くことなく与えられたものと見なすためには、この純粋理性の事実に基づき、自分は立法的である〔私はかく欲し、かく命じる〕と言明して憚らることはない。
系
純粋理性はそれだけで実践的であり、我々が道徳法則と名づけるような普遍的法則を与える。
上に述べた純粋理性の事実は、とうてい否定できるものではない。人間の意志がありとあらゆる主観的差異を示すにも拘らず、この道徳性の原理を意志に対して形式的な最高の規定根拠たらしめるのは立法の普遍性にほかならない。この普遍性の故に、理性は道徳性の原理を同時に一切の理性的存在者に対する法則であると言明するのである。
ところで、有限的な理性的存在者の場合には、道徳的法則は命令の形式をとる。様々な必要や感性的動因によって触発される有限的存在者にあっては、道徳的法則と相容れない格律に従うことが不可能であるような意志を前提することができないため(道徳法則は無条件的な法則だから)道徳的法則は定言的に命令する命法となる。
この道徳的法則に対する有限的存在の意志の関係は〔依存〕の関係であり、この依存性は〔責務〕と呼ばれる。責務は行為への強制を意味し、このような行為が、すなわち〔義務〕と呼ばれる。
パトローギッシュに触発された意志は主観的原因から生じた願望(純粋な客観的規定根拠にしばしば反することのあり得るような願望)を伴うところから、道徳的強制として実践理性の側からの抵抗を必要とする。この抵抗は、内的ではあるがしかし知性的な強要と名づけられてよい。
最高叡智者にあっては意志が格律であると同時に客観的法則をもつと考えられるのが当然であるため、このような理由から最高叡智者に帰せられる神聖性の概念は、彼をして有限的な理性的存在者の一切の行為を、実践的に制限する一切の法則(従って責務と義務とを)超越させる。
それにも拘らず最高叡智者の意志のかかる神聖性は一個の〔実践的理念〕であり、その理念は必然的に原型として役立ち、この原型に無限に接近することが一切の有限的な理性的存在者の為し得る唯一のことである。
この神聖性の理念は、純粋なるがゆえに自ら神聖と称する道徳的法則を、一切の理性的存在者の眼前に提示して止まないのである。
意志の格律がこの理念に向かって無限に進行し、これらの格律が常に変わることなく不断の進行を続けることを確実にするものが、すなわち〔徳〕である。徳(人間が義務を履行する場合の意志の強さ)こそ有限な実践理性の生ぜしめ得る最高のものである。
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