趣味判断の第二様式『分量』まとめ(84-99頁)

六 美とは概念を用いずに普遍的適意の対象として表象されるところのものである

 何びとといえども或る対象に関する彼の適意が『一切の関心にかかわりのない』ものであることを意識する限り、彼の適意には同時にすべての人に対する適意の根拠〔普遍性〕が含まれていなければならないという判定に達せざるを得ないからである。
 ※あくまでも量的にということか?

七 上述の標徴によって美を快適および善と比較する

 快適なものに関しては、各人が各様の趣味をもっているという原則が当てはまる。それだから彼が、『カナリア島産の葡萄酒は快適である』と言った場合に、はたの人がこういう言い方を訂正して、彼は『この葡萄酒は私にとっては快適である』と言うべきであると注意すれば、彼はこの注意を尤もだとして喜んで納得するのである。ところが美については、事情はまるで違ってくる。
 仮に自分の趣味のよさをいくらか自負している人が、自分の考えの正しいことを証明するつもりで『この物(着ている服、建物、車など)は、私にとっては美しい』と言ったとしたら、いかにも笑止である。
 もしその物が、彼に対してだけ快いものなら、彼はそれを美と呼んではならないのである。
 いやしくも彼が何か或るものを美であると主張しようとするならば、彼は他の人達にも彼とまったく同じ適意を要求することになる。その場合に彼は、自分自身に対してだけ判断しているのではなくて、ほかのすべての人に対しても判断しているのである。
 美に関する趣味判断が確立しようとするところのもの、或は要求するところのものは、まさにこの普遍的規則なのである。
 なお善に関しては、確かにその判断は当然すべての人に例外なく妥当することを要求する、しかし善は、概念(※理念?)によってのみ普遍的敵意の対象として表象されるのである、しかしかかることは、快適なものについても、また美についてもあり得ない。

八 趣味判断において考えられる適意の普遍性は単なる主観的普遍性にすぎない

 我々は、次の二件を十分に心得ておかねばならない。
 第一に、我々は趣味判断によって、対象に関する適意をすべての人に要求する、しかし我々は概念に基づいてこのことをするのではない(もしそうだとしたら、適意の対象は美ではなくて善になるだろう)ということである。
 第二に、普遍妥当性に対するかかる要求は、我々が何か或るものを美と判定するような判断にとって本質的なものである、それだからこの場合に普遍妥当性を考えるのでなければ、およそ美という語を使用することすら思い及ばないだろう、そして概念にかかわりなく我々に快いほどのものは、すべて快適に属することになるだろう。しかし快適に関しては各人がめいめい自分の意見を主張するから、誰にせよ自分の趣味判断に他人の同意を要求できるわけがない(感覚的趣味)ところが美に関する趣味判断においては、常にこのことが要求されるのである(反省的趣味)
 第一に注意しておかねばならないことは、対象の概念に基づかない普遍性は、論理的普遍性ではなくて美学的普遍性である。かかる普遍性は判断の客観的『分量』を含むのではなくて、主観的『分量』を含むにすぎない。私はこのような普遍性に対しても一般的妥当性という語をもちいる、しかしこの語は、対象と認識能力との関係の妥当性を標示するのではなくて、表象と快・不快の感情との関係がすべての主観に例外なく妥当することを標示するのである。
 第二に注意しておかねばならないことは、客観的妥当的判断は、常に主観的にも妥当する。もし判断が与えられた概念のもとに含まれている一切のものに妥当するならば(※例えば道徳法則?)かかる判断はこの概念によって対象を表象するすべての人に妥当するのである。しかしおよそ主観的普遍妥当性から(概念に基づかない美学的普遍妥当性から)論理的普遍妥当性を推及することはできない、この種の判断は客観にはまったく関係しないからである。
 例えば、私はいま眺めているバラを趣味判断により「美」であると判定する。しかし多くの個々のバラを比較して「一般的にバラは美しい」という判断が成立すれば、この判断はもはや単なる美学的判断ではなくて、美学的判断に基づく論理的判断である。ところで「このバラの匂いは快適である」という判断は、趣味判断ではなくて感覚的判断である。趣味判断と感覚的判断は次の点で異なっている、前者は普遍性の美学的『分量』を伴っているが、このような『分量』は快適に関する判断においてはまったく見出され得ないのである。
 美学的普遍性は特殊な種類のものなのである。或る客観の概念を、その論理的範囲の全体に亙って考察してみたところで、美学的普遍性は美という述語をこの客観の概念に結びつけるものではないが、しかしこの述語を判断者〔主観〕の全範囲に及ぼすからである。
 対象を概念によって判断するならば、およそ美の表象はすべて失われてしまうことになる。それだから何か或るものを美と認めることを強要するような規則はあり得ない。
 趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる普遍的賛成にほならない。趣味判断そのものはすべての人の同意を要請するわけにはいかない。ただこの同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に要求するだけである。そしてこのような事例に関しては、判断の確証を概念に求めるのではなくて、他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない(なおこの理念が何に基づくものであるかは、ここではまだ考究されない)
 ※この理念は、反省的判断力、目的論的判断力の批判、あるいは自然の合目的性のことを言っているのだろう。

九 趣味判断においては快の感情が対象の判定よりも前にあるかそれとも対象の判定のほうが快の感情よりも前にあるのかという問題の究明

 この問題の解決は、趣味の批判を解明するところの鍵である。
 もし趣味判断において、与えられた対象に関する快のほうが対象の判定より前にあり、この判断において対象の表象に認められるのは、すべての人がこの快に関与することだけであるとするなら、この種の快は性質上個人的妥当性をもち得るにすぎないから、かかる考え方は自己矛盾に陥いるだろう。かかる快は対象が与えられるところの表象に依存しているわけである。
それだから趣味判断の主観的条件としてこの判断の根底に存し、対象に関する快を必然的に生ぜしめるところのものは、与えられた表象によって生じた心的状態に〔すべての人が〕普遍的に与り得るということである。
 もしこのような普遍的関与性に関する我々の判断の規定根拠が単に主観的なものであるとすれば、かかる主観的根拠は我々の表象力が与えられた表象を認識一般に関係せしめる限り、我々の表象力相互の関係において見出される心的状態以外のものではあり得ない。
 そこでかかる表象が認識能力〔構想力と悟性〕の活動を触発すると、この二つの認識能力は相共に自由な遊びを営むのである。
 それだからかかる表象によって生じる心的状態は、我々の表象力が与えられた表象に関して、認識一般のために自由な遊びを営んでいるという感情の状態でなければならず、自由な遊びを営んでいる認識能力のこのような状態こそ、すべての人が普遍的に関与し得るところのものなのである。
 趣味判断における表象の仕方には、主観的な意味においてすべての人が普遍的に関与し得る。そしてこのことは一定の概念を前提しないで行われるわけであるから、こうしてすべての人が普遍的に関与し得るところのものは、構想力と悟性との自由は遊びにおける心的状態にほかならない。
 対象の判定は対象に関する快よりも前にあるのである。
 美は、主観の感情に関係しない限り、それ自体だけでは無である。
 すると我々はこの問題の解明を、次のような問題が答えられるまで保留せねばならない、即ちー美学的判断はアプリオリに可能であるのかどうか?
今のところ我々は、もっと小さな問題に手をつけることにしたい。
我々は、趣味判断における認識能力相互の主観的調和をどんな仕方で意識するのか?
 もし趣味判断の機因となるところの与えられた表象が、悟性と構想力とを合一して対象の認識を成立せしめるような概念(純粋理性批判で論じる判断力の図式論のような)であるとするならば、かかる関係の意識は知性的なものと言える。しかしそうなると判断は、快・不快に関する判断ではなく、趣味判断ではないだろう。ところが趣味判断は、概念にかかわりなく対象の適意と、美という述語とに関して規定する、それだからこの両つの能力(構想力と悟性)とに生気を付与して、与えられた表象を一定の調和活動(認識いっぱんに必要な活動に到らしめるものが)即ち感覚なのである。そして趣味判断は、すべての人がこの感覚に普遍的に関与しえることを要請するわけである。
 我々はこのようは均剤的調和を、あらゆる認識のために要求する、それだからまたかかる調和は、悟性と感性を結合することによって判断するよう定められているすべての人(即ち人間に)例外なく妥当すると見なすのである。

判断の第二様式から論定された美の説明

 美は、概念にかかわりなく普遍的に(すべての人に)快いところのものである。

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