定理 一 ニ 三 52-68頁
定理 一
欲求能力の実質(実現が欲求されるような対象)を意志の規定根拠として前提するような実践的原理は、すべて経験的原理であり、実践的法則にはなり得ない。
この場合に行為を選択し得る意志の規定根拠はかかる対象の表象であり、従って主観に対する表象の関係となる。
主観に対するこのような関係は、対象が実現されたことを喜ぶ〔快〕の感情が意志規定の条件として前提されている。
しかし対象の表象がどのようなものであろうとも、それが〔快〕と結びついているか〔不快〕と結びついているのかということをアプリオリに認識することは不可能である。それだからこのような場合には、意志の規定根拠は経験的なものとなり、意志の規定根拠を条件として前提するところの実践的原理もまた経験的原理とならざるを得ない。
また〔快・不快〕を感受する主観的条件だけにもとづく原理は、かかる感受性をもつ主観に対しては格律として役立ち得るが、個々の主観ではなくすべての主観にアプリオリに認識されねばならないところの客観的必然性を欠いているため、この原理は実践的法則になり得ない。
定理 ニ
実践的原理は、実質的なものとして、すべて同一種類に属し、自愛あるいは自分の幸福という普遍的原理のもとに総括される。
主観の感受性にもとづいている〔快〕は対象の現実的存在に依存しており、このような〔快〕は感情に属するものであって、悟性には属しない(悟性は表象の関係を概念に従い表示する能力である)すると〔快〕は、主観が対象の現実的存在から期待する快適の感情が欲求能力を規定する限りにおいてのみ実践的なのである。
ところで生の快適という感情が理性的存在者に伴った意識が〔幸福〕であり、かかる幸福を意志の最高の規定根拠とするところの原理が〔自愛の原理〕である。
故に、意志の規定根拠を対象の現実的存在から感受される〔快・不快〕に求めるところの実質的原理は、これらの原理が〔自愛〕あるいは〔幸福〕という原理に属する限りすべて同一種類に属する。
※幸福の例
幸福であるということは、有限的な存在者であれば必然的にもつところの欲求であり、従って幸福が理性的存在者の欲求能力の規定根拠になるのは避けがたく、有限な本性そのものによって彼に押しつけられた一個の課題である。
つまり彼は、有限なるが故に不足を感じ、そこでこの不足を補うことが必要である。
このような必要は彼の欲求能力の実質(主観の根底に存する快・不快の感情に関係するような何か或るもの)にかかわりをもっており、このものによって自分の現在の状態を満足させるために必要とするものが規定される。
しかも、同一の主観における快・不快の感情の変化に従い、主観の必要とするものも変わるため、主観的には必然的な法則(自然法則としての)も、客観的には極めて偶然的な実践的原理であり、この原理(幸福という)は、主観の異なるにつれ、はなはだしく異ならざるを得ない。
さればこそ我々は、この〔幸福の原理〕を法則と認めることができない。
およそ法則は、すべての理性的存在者の意志に対し、客観的なものとして同一の規定根拠を含まねばならないからである。
定理 三
理性的存在者が彼の格律を普遍的な実践的法則と見なしてよいのは、彼がその格律を形式に関してのみ(実質ではなく)意志の規定根拠の原理と見なし得る場合に限られる。
実践的原理の実質は意志の対象である。①この対象が意志の規定根拠であるなら、意志を規定する規則は経験的条件(快・不快の感情の関係)に左右され、実践的法則ではあり得ないだろう。②ところで法則から一切の実質(意志の規定根拠としての意志の対象)を除き去ると、後に残るのは法則の形式、すなわち〔普遍的立法〕という形式だけになる。
故に、①理性的存在者は彼の格律を、格律であると同時に、普遍的法則であると考えることができるか?②或いは格律を実践的法則たらしめるのは、まさに格律の純然たる形式のみであると想定しなければならないか?二つのいちいずれかである。
しかし実践的原理としての格律はかかる形式によってのみ普遍的立法にふさわしいものとなり、いかなる格律の形式が普遍的立法にふさわしいか否かということは、各自の最も普通の悟性〔常識〕で容易に区別することができる。
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