第一節 定義 47-52頁
実践的原則とは、かかる意志規定の条件を主観自身の意志にのみ妥当すると見なす場合には主観的原則であり〔格律〕と呼ばれる。
しかしこの条件が客観的なものとして(すべての理性的存在者に例外なく妥当すると認められる場合には)客観的原則〔法則〕と称せられる。
理性的存在者の意志がパトローギッシュ(感性的動因に触発された動物的意志)に触発されると、彼自身が実践的法則と認めたところのものと彼の格律との間に抗争が起きることがある。
自然認識においては、生起するものの原理(例えば運動法則)は、同時に自然法則であり、この場合理性は理論的に使用され、客観の性質により規定されている。
ところが実践的認識(意志の規定根拠だけを問題とするところの認識)においては、我々が自分自身に与える原則は、必ずしも服従せねばならないような法則ではない。
実践的なものに関して、理性は主観(従って欲求能力)を問題にするため、その場合実践的規則は欲求能力の性質に従い、目的としての結果を生ぜしめるための手段を指示して多様な方向をとることがある。
しかしまた実践的規則は、理性が意志の唯一の規定根拠でないような存在者(人間)にあっては命法(行為への客観的強制を表現するところの「べし」によって表示されるような実践的規則)であり、仮に理性が行為者の意志を余すところなく完全に規定するならば、行為は必ずこの規則に従い生起するであろう。
それだから〔命法〕は客観的に妥当し、主観的原則の格律とは異なるものである。
命法は、作用原因としての理性的存在者の原因性の諸条件を①結果とこの結果を生ぜしめるに十分であるということを目途にして規定するか②余事を顧みることなく意志そのものを規定することだけに終始し、その意志がなんらかの結果を生ぜしめるに十分であるか否かを問わないか、二つのうちのいずれかである。
①の命法は〔仮言的命法〕であり、練達の指示以上に出ないであろう。
②の命法は〔定言的命法〕であり、これだけが実践的法則と呼ばれてよいであろう。
それだから格律は、確かに原則ではあるが、しかし命法ではないのである。
それだから命法といっても、それが条件付き(所求の結果を目当てに意志を規定するような仮言的命法)であれば、それは実践的指定ではあるが、しかし実践的法則ではないのである。
実践的法則は、余事を顧みずに意志をただ意志として規定する定言的命法でなければならない。さもないと命法は実践的法則になり得ず、法則でないような命法は必然性をもたない。
※仮言的命法の例
或る人に向かって「年をとって生活に困らないためには若いうちに働いて倹約せねばならない」と言うならば、これはこの人の意志に対する適切で重要な実践的指定である。しかしこの場合意志には欲求の対象として〔意志の必然的規定根拠〕とは別の何か或るものが前提されていて、意志はこのものを実現するように支持されていることは我々の看取し得るところである。
必然性を含んでいなければならない規則はすべて理性からのみ発生し、理性の立法に必要なのは、理性は〔理性そのもの〕を前提せねばならないということだけである。
※定言的命法の例
或る人に向かって「君は決して偽りの約束をすべきでない」と言うならば、これは彼の意志だけに関する規則にすぎない。またこの人の懐いている意図は、彼の意志によって達成されるものも、或はされないものもあるだろう。すると実践的規定によってアプリオリに規定されるのは、彼の意欲そのものだけということになる。そしてこの規則が実践的に正しいとわかれば、それはとりも直さず法則である。
実践的法則は意志そのものだけに関係し、意志の原因性によって達成される〔結果〕を無視して願いみない。
それだから実践的法則の純粋性を保つためには、意志の原因性(感性界に属するもの)を度外視して差支えないのである。
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