見出し画像

『抒情歌』読書感想文

 web上の読書会に提出した感想文を添付します。

 タイトル:過去と現在の関係

 昨年末『伊豆の踊子』の読書会に参加して『禽獣』と続き、今回『抒情歌』を読み、だんだん川端文学の「やばさ」が分かってきた。この人、おそらく人間のかたちをした霊的な何かだ! 多分幽霊とか普通に見えているでしょ? 絶対に近づいてはいけない「やべー奴」生まれながらにしての天才的な芸術家だ。

 とくに今回の『抒情歌』は難解というかなんというか、理解することを突き放してくる。ぶっちゃけ感想文の書きようもない訳が、なぜか食らい付きたくなるのが川端文学の粋な所。記憶の中で主客統一する「あなたと私」はどこか仏教的でもある。なんとか切り口を見つける為ベルクソンの『物質と記憶』を取り出した。
 第三章「過去と現在の関係」を引用しながら解読を試みる。

 すべての知覚はすでに記憶なのである。われわれは、実際には、過去しか知覚していない。純粋な現在は、未来を侵食する過去の捉えた難い進展なのである(中略)まったく純粋な現在のなかで生きること、刺激に対してそれを引き継ぐ直接的な反応によって応じることは、下等動物の特性である。

 さて『抒情歌』の時間と空間はどのようになっている? この話は語り手である私が床の間の紅梅を見て、記憶を思い出しながら諸々のイマージュを現在という時間に表象していく訳だが、私の持続は絶え間ない過去の反復にある。この私の問題は、未来における方向性であり、態度であり、直接的な運動であり、自由な行動であることはあきらかだろう。が、しかし、川端先生はそんな俗っぽいことなど書かない。更に又ベルクソンを引用しよう。

 過去のなかで生きることの楽しさのために過去のなかに生きる人は、行動にほとんど適応しておらず、その人において、想起は現在の状況の利益となることはく意識の光に照らされて浮かび上がる。それはもはや衝動的な人ではなく、夢見る人である。夢見るような人間存在は自分の過去の歴史の限りなく多くの細部をあらゆる瞬間に自分の眼差しのもとに留めておくだろう。反対に、記憶を、それが生み出す全てのものと一緒に捨てる人は、自分の現実存在を表象する代りに、自分の現実存在を絶えず演じるだろう。意識を有した自動人形であるそのような人は、刺激を適切なら反応へと引き継ぐ有益な諸習慣の傾向に従うだろう。

 さすが川端先生。われわれ俗人とは意識の次元が異なる。記憶の残存が措定されれば、イマージョはいつでも現在の知覚に加わり取って代わる。過去のイマージュは現在の経験を既得の経験により豊かに補給し、増大し、遂には現在の経験を覆い尽くし呑み込むに至る。

 直感的な千里眼をもつ『抒情歌』の私は花の香りを嗅ぐことの知覚により過去を現在に差し込み、直感のなかで純粋持続の諸々の個人的で人格的な想起の連鎖を瞬間的に収縮させ、感情的な色合いを伴った記憶は現象において明白な精神を捉えた。即ち床の間の紅梅にあなたの生まれかわりを感じるという胡蝶の夢のようなおとぎばなしだ。

 そう言えば、レイモンドの霊界通信のエピソード、母親の幻と死のエピソード、それらのおとぎばなしを読んでいるうちに小林秀雄の『信ずることと知ること』を思い出した。あそこにもベルクソンが心霊学協会で行った講演の引用がある。夫が遠い戦場で死んだとき、パリにいた夫人が同じ時刻に夫が倒れた夢を見たというエピソードだ。その話を聞いたベルクソンの簡明な答えは「夢に見たのは念力という未だはっきりと知れない力によって直接見たに違いない。そう仮定してみるほうが自然だし理にかなっている」だった。

 科学者達は「魂」の力も電気や磁力と同じようなものであるというおとぎばなしをこしらえるが、私は「魂」という言葉を天地万物を流れる力の一つの形容詞に過ぎぬと認め、禽獣草木のうちにあなたを見つけ、輪廻転生の抒情詩を読み、天地万物を愛する心をとりもどし「魂」が時間と空間を超えて死人のあなたのところへ通うように念じる。われわれはそのようなおとぎばなしを未開民族の汎神論だと笑うことができるだろうか? 川端康成の「やべー話」ベルクソンに言わせると、極めて常識的な話である。

 おわり

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集