樋田毅『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋 2024年)
1972年11月8日、学生運動の中で早稲田大学の学生だった川口大三郎氏が暴行されて亡くなった。
この事件をきっかけに、大学の自由を求めて活動した著者が、当時のことをまとめたのがこの本。
時間が経ったから冷静に見えてくるものもある。
私の在学中はもちろん学生運動など影も形もなかったが(それらしい謎の団体がチラシを配ったり何かの呼びかけを行っているのを見た程度)、大学紛争の頃は対立する集団での暴行は日常的にあったようだ。そして大学も関与してこなかったらしい。
元々は社会に対して問題提起の声を上げていたのが、思想の違いから対立が起こり、本来の問題とはずれて相手の間違いを糾弾するようになったように見える。
これは現在起きているテロや戦争にも通じるのではないか。
正しいと思うことを表明するとき、どこまで人の権利を侵害することが許されるかと考えた。しないのが一番だが、そうもいかない場合もあると思う。
選挙に投票する、意見書を該当する機関に送る、いまならSNSで問題提起をする。この辺りは特に問題はないだろう。
デモや占拠を行うことは周辺の人の迷惑になる、つまり静かに生活や仕事をする権利を侵害する事になると考えられる。
意見が違う人を暴言や暴力で攻撃したり、脅迫するのは紛れもなく権利の侵害で許されない。
それぞれが「正しさ」を主張し、他者への攻撃をするなら、それはもう主張がどうこう言う問題ではなくなっている。
そんなことを考えて読み進めていたら、このような記述があった。
「『寛容な心』は、社会の不正や理不尽を受け入れることではないし、相手の気持ちを推し量って『忖度』することでもない。社会にはびこる『不寛容』を鋭く見抜き、『寛容であれ』と粘り強く働きかける心の持ち方である」(283ページ)
これにつきるような気がした。
意見が違う者の言い分も聞いた上で、折り合いをつけなくてはならない。相手が約束を守らないなど問題が起きたら、都度話し合って対応する。
そういうことでしか、主張を受け入れられる方法はないような気がする。