【娯楽の塵】COFFEEの類
1989年
ステイオンタブ日本登場
ステイオンタブ ≒ イディオットプルーフ
この世は楽観的に言えば少数の、悲観的に言えば多数のイディオット≒愚か者で決まる事項が多いようだ。十人中何人がプルタブをゴミ箱に捨てなかったのか。
捨てるか捨てないか、選択肢を与えられていたのに。行動を試されていたのに。娯楽の享受と引き換えに律する心を養えたはずなのに。「ここには捨てない」という「しない」意思の強さを積み上げる機会を一つ失ってしまった。
細かな選択に伴う自身の思考が次の自分を創り上げていく。するか、しないか。人はどうにも決めがたい想いに押しつぶされそうになりながら毎日を過ごしているのに、せめて自分の出したゴミを捨てるか捨てないかの選択くらいは乗り越えるべき訓練じゃないのか。それともそんなに考えたくないのか。
本質とは人により違う。物事の結果も良し悪しは千差万別。ただ無かった物が生まれる事実やあった物が無くなる事実は誰にとっても同じ。その事実を作るサダメは全員が背負っている。逃れられはしない。知らないふりなど、やり過ごせると思っているなら何の意味もない。その事実が起こす結果が待ち受けているだけだ。
缶にくっついたタブは変わりに背負ってあげましたよと言わんばかりに誇らしげに天を仰ぐ。その身代わりも虚しく、缶そのものが何処かの道端に転がっているのだけれども。
するかしないかの自由を与えられているうちはまだいいのだ。そのうち「ゴミって何」なんて、空恐ろしい事になっているかもしれない。