解説編⑤ あの判決の意義をもう一度
#知る学ぶ考える とき
国会の委員会でも、#連れ去り天国 への言及もあり、2011年の民法766条の改正にもかかわらず、ほとんど変わっていないということも取り上げられている。
まさに、そこが問題である。
養育権の調整機能がないままなのである。
(3) 民法766条1項について
民法766条1項は、離婚の際の面会交流、養育費等の子の監護に関する事項を協議する旨規定している。本条は、婚姻が事後的に解消されるケースに加えて父母が婚姻をしていない場合を含むすべての非婚父母に準用されている(民法749条、771条、788条)。
父母間で子の監護についての具体的な内容を協議することは、単独親権の下、双方の養育権を調整する上で必要な協議であるということである。単独親権によりすくなくとも第1次的には子の養育の決定権を持つ親は父母の一方のみとなり、そうであるからこそ、潜在的な養育権を有する父母間で子の養育の内容を取り決めることは必須なのである。この協議又は裁判所の判断が、子の監護の意思を有する父母においては必ず実施され、かつ、判断において父母の養育権を対等に調整していく枠組みが存在していれば、養育権保障のための措置になり得る。さらに言えば、父母の養育権を尊重する形で親権者の指定・変更自体が可能である点において、もしかすると、単独親権制は親の養育権を対等に調整する方向で、親権者指定・変更の判断の枠組みを明確に立法で打ち出せば、むしろ父母の養育権を最大限に尊重することのできる画期的な制度として各国の模範になりえたかもしれないのである。
実は、単独親権制それ自体が養育権を侵害するとは限らない。「使い方」だったはずだ。そのための民法766条の改正だったろう。だが、実際は、世界から笑われる(今や、怒られる)事態に至っている。
しかし、現実には子の監護に関する事項の協議が存在しない非婚は存在し、また、離婚時においても実質的な取り決めがなくても離婚は可能であることは公知の事実である。また、裁判離婚においても、附帯処分として申立てをしない限り子の監護に関する事項は判断されない。本来、特に親権に争いがあるケースでは、養育費や共同監護を含む子の面会交流の在り方を親権者候補同士が議論しなければ、親権者を判断しようがない。こうした考えに近いルールをフレンドリーペアレントルールなどということがある。フレンドリーペアレントルールという言葉は、その語感から離婚父母が殊更に仲がよいことを求めているかのように誤解されがちであるが、実際は、(たとえ父母間の関係に悪感情などがあっても)父母双方との親子関係を最大限保障するという、単独親権制のもとでは当然ともいえるシステムなのである。であるにもかかわらず、多勢の裁判傾向は、双方が親権者となることを希望し積極的な方針を打ち出しているにも関わらず、まず消極的な理由で親権者を先に決めた上で、双方が子を養育する形とはほど遠い狭い意味での面会交流の問題に話を落とし込む傾向がある。これは、子の監護に関する附帯処分の申立てをした場合でも傾向としては変わらない。双方の養育権を保障し調整する実態は存在しないのである。
フレンドリーペアレントルールが大切だったはずだ。しかし、それすらも怠っていることは次の判決からも明らかになっている。
有名な近年の裁判例を挙げる。千葉家裁松戸支部(平28年3月29日判決、判時2309号121頁)は離婚等請求事件の判決において、被告である別居親が「緊密な親子関係の継続を重視して、年間100日に及ぶ面会交流計画を予定している」ことを指摘して、子が「両親の愛情を受けて健全に成長することを可能とするために」上記面会交流方針を有する被告を親権者に指定し原告に対し子の引渡しを命じた。しかし、同控訴審判決である東京高裁平成29年1月26日判決(判時2325号78頁)は、上記の原審の判断を取り消した。その理由は「未成年者の親権者を定めるという事柄の性質と民法766条1項、771条及び819条6項の趣旨に鑑み、事案の具体的な事実関係に即して、これまでの子の監護養育状況、子の現状や父母との関係、父母それぞれの監護能力や監護環境、監護に対する意欲、子の意思その他の子の健全な生育に関する事情を総合的に考慮して、子の利益の観点から父母の一方を親権者に定めるべきであると解するのが相当である。」「父母それぞれにつき、離婚後親権者となった場合に、どの程度の頻度でどのような態様により相手方に子との面会交流を認める意向を有しているかは、親権者を定めるにあたり総合的に考慮すべき事情の一つであるが、父母の離婚後の非監護親との面会交流だけで子の健全な生育や子の利益が確保されるわけではないから、父母の面会交流についての意向だけで親権者を定めることは相当でなく、また父母の面会交流についての意向が他の諸事情より重要性が高いともいえない。」というものである。同高裁判決はその後確定している。同高裁の判断には、父母双方の養育権が対等であるという前提は当然なく、また、「面会交流」が養育行為であるという認識にも欠けている。上記判決の事案は父母どちらにも虐待があると認定されているわけでもなく、父母双方の養育の意思と能力が認められている事案である。こういった事案においては、父母双方の養育を受けることを確保することが双方の愛情と養育能力が生かす道であり、逆にこの点以外に司法判断の必要性が乏しいといえる。すなわち、父母の養育能力が十分である事案において、後述のとおり何らの立法的な判断基準も与えられていない中で、「総合的に考慮」などと言ったところで、いったい何を司法が判断するのか。適切な感覚をもつ裁判官であれば、狭い意味での養育行為や養育方針について、親以外の者が良し悪しを判断すること自体が不適当であることは分かるはずである。また、子の意思や子との関係性と言ったところで、未成熟な子が双方の親と十分な関りをもっていない環境の中では、子の自己決定の前提を欠いていることも分かるはずである。だからこそ、上記裁判例のような事案は、双方の養育権の調整こそが残る重要解決課題なのである。そうすると、司法の選択は、養育権の調整をするかしないか、これだけである。この点、上記第1審の家裁判決は、司法判断としては珍しく、養育権を対等に調整「した。」。これに対して、高裁判決は、本来「子の監護に関する処分」であり養育権調整の問題あるはずの「面会交流」を、単に親子が面会する機会程度に捉えてしまっているため、同事案においてはほぼ唯一の解決課題であるはずの養育権の不均衡について、「他の諸事情より重要性が高いとはいえない」としてしまった。要するに、対等な養育権調整を「しない」としたのである。とするともう結果は明白である。養育の能力の意思も有している父母について、その良し悪しを適切に判断することなどできるはずもなく、結局消極的に現状維持の結果を導いてしまったのである。このように、日本では民法766条は、父母の養育権を対等に調整する役割をまったく果たしていないのである。
なお、現状維持の判断は、個別の裁判官の判断の問題だけではなく、現状の単独親権立法による起こるメカニズム的な問題であることは後述する。
連れ去り天国のメカニズムを解明している。
逆転判決には、多くの当事者を絶望に落とした。改正された民法766条の機能がようやく芽吹いたのだという期待を打ち砕くに十分だったからだ。
感情的な思いがあふれる。しかし、噛み砕いてこそ見えてきたのは、養育権を対等に調整するという視点の欠落、養育権を尊重しないということである。
この逆転判決があるからこそ、しっぽをつかめた。
現実には、この展開を前にして、泣き寝入りの和解(闇に葬る)解決の方が多い。
連れ去られ、養育権を侵害された親が闘う手段はそもそも制限的なのだ。
闘っても会えない。闘わなくても会えない。
日本の現実だ。
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