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解説編④ 代諾養子縁組の問題

#知る学ぶ考える  ために、親子の別れを強いられる相談者の依頼を引き受けてきた弁護士が考える養育権侵害の実態を世に届けている。

日本で何が起きているのか、好きな人と一緒にいようと考えてわが子の誕生を祝い喜ぶ普通の人たちが、何に直面しているか、知っておきたい問題がある。

知るまでは、ふつうに家族だった。親子だった。少し夫婦は不和だったかもしれない。まさかそんな目に遭うなんて、よほどひどいケースに限られたものだろう、話せば、裁判所が正してくれるはずだ。とてもとても難しい司法試験を突破したエリートたちが、考えてくれるのだから。って、信じているものだろう。


当事者になるまでは。


日本に生まれて良かったな、と信じて生きてきたに違いない。

男女は平等なのだと学び、男女共に、家事・育児を引受、仕事もするものだと教育され、受け入れてきた人たちが、直面して初めて気づく不合理。

理不尽だといくら叫んでも救われる手段はなく、せめてもの次世代が生きる未来に託すしかない絶望の今。かつては、声にすることもなく消されていただろう。ようやくと声を集め、声にすることができるアクションの勢いが止まらない。

自然権として保障されるはずの養育権が侵害されている。何が起きているのか。

再婚後に連れ子と再婚相手との養子縁組が、親権のない実親の預かり知れない内に裁判所の許可もなく届出だけで成立してしまう問題がある。

(2) 非親権者の同意不要の代諾養子縁組について


  親権者は子の法定代理人であり(民法824条)、「養子となる者が十五歳未満であるときは、その法定代理人が、これに代わって、縁組の承諾をすることができる。」(民法797条1項)。「法定代理人が前項の承諾をするには、養子となる者の父母でその監護をすべき者であるものが他にあるときは、その同意を得なければならない。」(同条2項)。これらの規定により、親権者は、15歳未満の子の養子縁組を代諾で行うことができ、他方の親は子を監護すべき者でない限り、これを拒むための同意権もない。
  運用としても、本来、面会交流や養育費の支払いも「子の監護」の一環であるから(民法766条1項)、子との面会を求める父母や子への養育費を支払う父母がある場合、「父母で監護すべき者」として同意権を与えるべきにも思えるが、これらの者は同意権(拒否権)がないものと扱われている。
  以上の法律及び実態は紛れもなく親の養育権の侵害である。そもそも、共同親権であるか単独親権であるかにかかわらず、親権は原則的に「父母」親権の枠組みとなっており(民法818条1項)、非婚父母においても、同枠組みの中で、父母間の親権者の変更・指定の可能性を残しながら(民法819条各号)、子の監護に関する処分一般について父母間の協議事項・調停・審判事項とする(家事事件手続法39条、同法別表二、民法766条)。つまり、単独親権制の下でも、父母間の養育権の調整規定自体は設けられており(この立法が不十分であり適切に機能していないこと及びその理由は後述)、その前提の状態が民法818条1項の「父母」親権の枠組みなのである。しかし、上記の代諾養子縁組がなされると非親権者である親の意思に反して、非婚父母間の養育権調整機能の前提となる「父母」親権の枠組み(818条1項の枠組み)から外れ、養親親権の枠組み(同条2項の枠組み)に移行してしまう。この大きな枠組みの変更を如実に表す判例が、最決平26年4月14日(裁判所時報1602-1)である。同判例は、たとえ、実親の一方に親権が存していても、養子縁組により養親が親権を有する以上、父母間の規定である民法819条の適用はなく、親権者変更はできないことをはっきり述べたものである。また、面会交流等の子の監護に関する処分についても、本来父母間の規定であるにもかかわらず、父母ではない養親も当事者にすべきという運用がなされている。これについては、類推適用そのものに問題があるというよりは、同運用によって、そもそも、誰にいかなる権利があることを前提として審判を下すべきかが不透明なまま場当たり的な運用にならざるをえない点である。(なお、本筋からそれるが、現状、婚姻中の養親同士又は養親と実親の共同親権が認められているが、なぜこれが認められるのか。民法818条各項の枠組みからすると疑問である。前記最高裁決定のように養親に対する親権者変更について父母間の規定である819条の適用を排除することはこれ自体条文解釈としては自然であるが、そもそも養親を含む共同親権を求めることが婚姻中の「父母」の規定を不自然に適用しているように思う。)
  以上のように現行法及び運用は、父母双方の意思によらず、民法818条1項の「父母」親権の枠組み自体から外れてしまうことを許容しているものである。父母が父母であるという基本的な枠組みからも外れ、実際にも、親権者になる機会すらも失ってしまうのである。ここには、潜在的な意味においても父母の養育権の尊重はない。この問題は養育権侵害の重大性、明白性が顕著であるから最初に述べた。

改めて条文を確認してみよう。

第818条
1.成年に達しない子は、父母の親権に服する。
2.子が養子であるときは、養親の親権に服する。
3.親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。ただし、父母の一方が親権を行うことができないときは、他の一方が行う。

親権は「父母」の枠組みであり、例外的に、「養親」の枠組みになることもあるが、「父母の婚姻中」は、共同親権とするというもので、これを読めば、「養親」パターンでは、夫婦で養親になった場合にこそ、共同親権を観念できるが、再婚の場合の、1人の実親と養親が共同親権になるという発想は条文からはわからない。

そもそも、未婚の母が、非嫡出子がいる状態で再婚する場合、養子縁組は、非嫡出子を嫡出子とするために、その未婚の母(実の親)も「養子縁組」をして、養親と記載される。実の親なのに、「養親」と記載される。

親になろうとして、養親と記載されたことに傷つき、独自のしつけ(と呼ぶ体罰、ひいては暴力)を続けたある被告人が「親になろうとしてごめんなさい」と最後に述べたという報道は記憶に新しいが、実親なのに養親と記載される違和感こそ、率直に問題提起すべきではないか?

そこには、嫡出子を差別する問題がある。

非嫡出子を嫡出子にしようとすることには寛容なのだ。

未婚の母が、再婚後養子縁組をせず、再婚後に新し子が産まれたら、同じ母が産んだ子どもたちは、非嫡出子と嫡出子という区別をされる。同じ母が産んでいるのに、だ。

この区別は、かつて、相続分において法が差別を明記し、同じ母から生まれた子なのに、母の財産を相続するにあたっては、法定相続分が、1:2となるのだ。この差別は合理性がないということで、2013年、最高裁が違憲判決をし、差別規定は改廃された。

だが、根本的な嫡出子差別を完全に払しょくしたわけではない。

再婚養子縁組により嫡出子にするということ、そのために、実母は、「養親」になることが通用している。その名残ではないだろうか。元々、嫡出親子関係のある離婚後単独親権親が独断で再婚し、15歳未満の子の養子縁組を代諾すると、その再婚相手との共同親権になる。

全くの他人が、親としての適格性の審査を一切受けることなく、ただ、再婚した配偶者というだけで、親権者となり、懲戒権をも行使しえてしまうということ。この異常性について、国内外からの指摘は古く、国連からも勧告を受けている。

嫡出子であればよい、というだけで、実の親の養育権を尊重するという発想が欠落していることがわかる。

非親権者になっても、信頼関係があれば共同養育ができれば十分ではないか、という意見もあるが、やはり、非親権者がどれだけ脆弱かを知って欲しい。

知らない内に、わが子が他人の親権に服することになってしまう。

そうなると、潜在的親権の発動と評される親権者変更手続きも受付られなくなってしまう。親としての関わる余地が悉く制限されるし、かつては、「新しい家族を困惑させるな」といった言い方で、面会交流すら制限された。親子の一生の別れを強いてきた文化・慣習がある。

現在は、養子縁組後も面会交流の有益性が語られるようになり、裁判所の運用も変わってきているが、再婚を契機として、親子が疎遠になることはまだ起こりがちだ。それが、子の心情への配慮として十分なわけがないだろう。

再婚養子縁組により、主たる扶養義務者が変わったとして、養育費の減額が認められ得る。

そうやって、疎遠になることを受け入れてきたという別居親も多いのかもしれない。

ただ、それは、子どもの視点に立った時に、適切だろうか。

戸籍上の親子、親権があったとしても、子どもにとって、親の再婚配偶者は他人にすぎないこともあるだろう。時間をかけて、親しい間柄も構築しうることを否定しないが、どんなに親しくなっても、親に成り代わるとも限らない。

子どもにとって挑戦したい夢があって、莫大な費用がかかるというときに、誰に頼れるだろうか。遠慮させることにならないか。

何より、養育費は、子どもにとって愛情を感じられるためのカタチのひとつだ。

養育費は不要といって、送り返すようなケースも見られる。

子どもの権利なのに、一方親の独断で、受け取り拒否が起こる。

養育費を負担することを厭わない親だっている。

きめ細やかな調整をしてきたとは言えない。

現行の制度は、養育権を調整する機能を全く果たしていないのだ。

つづく







 (3) 民法766条1項について

民法766条1項は、離婚の際の面会交流、養育費等の子の監護に関する事項を協議する旨規定している。本条は、婚姻が事後的に解消されるケースに加えて父母が婚姻をしていない場合を含むすべての非婚父母に準用されている(民法749条、771条、788条)。
 父母間で子の監護についての具体的な内容を協議することは、単独親権の下、双方の養育権を調整する上で必要な協議であるということである。単独親権によりすくなくとも第1次的には子の養育の決定権を持つ親は父母の一方のみとなり、そうであるからこそ、潜在的な養育権を有する父母間で子の養育の内容を取り決めることは必須なのである。この協議又は裁判所の判断が、子の監護の意思を有する父母においては必ず実施され、かつ、判断において父母の養育権を対等に調整していく枠組みが存在していれば、養育権保障のための措置になり得る。さらに言えば、父母の養育権を尊重する形で親権者の指定・変更自体が可能である点において、もしかすると、単独親権制は親の養育権を対等に調整する方向で、親権者指定・変更の判断の枠組みを明確に立法で打ち出せば、むしろ父母の養育権を最大限に尊重することのできる画期的な制度として各国の模範になりえたかもしれないのである
 しかし、現実には子の監護に関する事項の協議が存在しない非婚は存在し、また、離婚時においても実質的な取り決めがなくても離婚は可能であることは公知の事実である。また、裁判離婚においても、附帯処分として申立てをしない限り子の監護に関する事項は判断されない。本来、特に親権に争いがあるケースでは、養育費や共同監護を含む子の面会交流の在り方を親権者候補同士が議論しなければ、親権者を判断しようがない。こうした考えに近いルールをフレンドリーペアレントルールなどということがある。フレンドリーペアレントルールという言葉は、その語感から離婚父母が殊更に仲がよいことを求めているかのように誤解されがちであるが、実際は、(たとえ父母間の関係に悪感情などがあっても)父母双方との親子関係を最大限保障するという、単独親権制のもとでは当然ともいえるシステムなのである。であるにもかかわらず、多勢の裁判傾向は、双方が親権者となることを希望し積極的な方針を打ち出しているにも関わらず、まず消極的な理由で親権者を先に決めた上で、双方が子を養育する形とはほど遠い狭い意味での面会交流の問題に話を落とし込む傾向がある。これは、子の監護に関する附帯処分の申立てをした場合でも傾向としては変わらない。双方の養育権を保障し調整する実態は存在しないのである。
 有名な近年の裁判例を挙げる。千葉家裁松戸支部(平28年3月29日判決、判時2309号121頁)は離婚等請求事件の判決において、被告である別居親が「緊密な親子関係の継続を重視して、年間100日に及ぶ面会交流計画を予定している」ことを指摘して、子が「両親の愛情を受けて健全に成長することを可能とするために」上記面会交流方針を有する被告を親権者に指定し原告に対し子の引渡しを命じた。しかし、同控訴審判決である東京高裁平成29年1月26日判決(判時2325号78頁)は、上記の原審の判断を取り消した。その理由は「未成年者の親権者を定めるという事柄の性質と民法766条1項、771条及び819条6項の趣旨に鑑み、事案の具体的な事実関係に即して、これまでの子の監護養育状況、子の現状や父母との関係、父母それぞれの監護能力や監護環境、監護に対する意欲、子の意思その他の子の健全な生育に関する事情を総合的に考慮して、子の利益の観点から父母の一方を親権者に定めるべきであると解するのが相当である。」「父母それぞれにつき、離婚後親権者となった場合に、どの程度の頻度でどのような態様により相手方に子との面会交流を認める意向を有しているかは、親権者を定めるにあたり総合的に考慮すべき事情の一つであるが、父母の離婚後の非監護親との面会交流だけで子の健全な生育や子の利益が確保されるわけではないから、父母の面会交流についての意向だけで親権者を定めることは相当でなく、また父母の面会交流についての意向が他の諸事情より重要性が高いともいえない。」というものである。同高裁判決はその後確定している。同高裁の判断には、父母双方の養育権が対等であるという前提は当然なく、また、「面会交流」が養育行為であるという認識にも欠けている。上記判決の事案は父母どちらにも虐待があると認定されているわけでもなく、父母双方の養育の意思と能力が認められている事案である。こういった事案においては、父母双方の養育を受けることを確保することが双方の愛情と養育能力が生かす道であり、逆にこの点以外に司法判断の必要性が乏しいといえる。すなわち、父母の養育能力が十分である事案において、後述のとおり何らの立法的な判断基準も与えられていない中で、「総合的に考慮」などと言ったところで、いったい何を司法が判断するのか。適切な感覚をもつ裁判官であれば、狭い意味での養育行為や養育方針について、親以外の者が良し悪しを判断すること自体が不適当であることは分かるはずである。また、子の意思や子との関係性と言ったところで、未成熟な子が双方の親と十分な関りをもっていない環境の中では、子の自己決定の前提を欠いていることも分かるはずである。だからこそ、上記裁判例のような事案は、双方の養育権の調整こそが残る重要解決課題なのである。そうすると、司法の選択は、養育権の調整をするかしないか、これだけである。この点、上記第1審の地裁判決は、司法判断としては珍しく、養育権を対等に調整「した。」。これに対して、高裁判決は、本来「子の監護に関する処分」であり養育権調整の問題あるはずの「面会交流」を、単に親子が面会する機会程度に捉えてしまっているため、同事案においてはほぼ唯一の解決課題であるはずの養育権の不均衡について、「他の諸事情より重要性が高いとはいえない」としてしまった。要するに、対等な養育権調整を「しない」としたのである。とするともう結果は明白である。養育の能力の意思も有している父母について、その良し悪しを適切に判断することなどできるはずもなく、結局消極的に現状維持の結果を導いてしまったのである。このように、日本では民法766条は、父母の養育権を対等に調整する役割をまったく果たしていないのである。
 なお、現状維持の判断は、個別の裁判官の判断の問題だけではなく、現状の単独親権立法による起こるメカニズム的な問題であることは後述する。

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