我妻榮が遺したもの
トップ画は榮で検索した
今夜がウェビナー
スライドも間に合う
最新の研究報告も盛り込ませたかったけど、まだ熟成させていきますー
昨日の続きを読んでいく
「戦後における民法改正の経過」という文献
共同親権にまつわる問題
・・・父母共同して親権を行う場合に、父母の意見が一致しなかったらどうするのかということを、司令部でもちょっと疑問にしておった。・・・スイス・・・など参照して百も二百も承知の上でこうやった・・・。意見が一致しなかったら父にするかというようなことがあって、そういうめんどくさいことをいうので、わざわざそこを全然書かなかったのですが、一致しなかったらどうするのだということを司令部でも一応は問題にしたのです。
実際上一致するといっても、法律的にいえば、一致しない場合には親権を行使することができないという結果になるだろう。君はそれで日本の社会に不都合は生じまいといったのですね。これは今西ドイツの親族法の改正でも問題にしているんですよ。ドイツ人は論理的なものだから、とどのつまりのことまで法律で何とかきめておかないと、裁判所に持っていったってどうにもしようがないと考える。・・・お前のところではどうしているという質問を受けた。それで、社会の実際がそれを決定する、りくつで何といったってしようがないだろうといったら、それもそうだがね、といってました。しかし、ドイツ人の頭ではどうも満足できないらしい。・・・もっとも、わが国の法律としても父母の意見が一致しないときは家庭裁判所が決定する、というような規定が必要なのかもしれません。ただ、実際問題として、父の意見を抑えるために、母が敢然として家庭裁判所に申請することを期待しうるかどうか、それは問題ですが・・・
GHQに対する態度
あとから考えると、氏と親権との問題についての司令部との交渉は、こちらも少し神経質じゃなかったかと思います。初めから・・・考慮されているときに、率直に司令部の方に持っていってやれば、向うもあんなに強くならなかったかもしれないのですが・・・。
そう。君は内部のことをまだ向うへいってはいけないと考えて、忠実にやったけれども、少し頑張り過ぎた傾向もあるね。
あとになって考えれば、こちらの方でも先方の趣旨と同じ案が完全につくれるなら、そうすることはわかっていたのだから、少し頑張り過ぎたのは向うに気の毒だったという気もしている。
しかし向うもずいぶん頑張ったね。こっちの・・・だってそう不都合なことはない。
「父之ヲ行フ」をみて、一本とったつもりで、形式的に平等ということばかりしか思ってないから、つっこんできたのだ。
父母が離婚しても共同親権にしておくことはできない、これは司令部でも認めている。どちらか一方にしなければならん。そこで、初めから親権に関する協議ということでいくか、それとも、日本の社会の実際は氏の同一の方と共同生活をするから、それによって親権者を定めることを第一次の標準にしておくか、という問題になる。後の標準をとっても、母の意思によって母が結局親権を行うようになる場合を認めているのだから、何もそう憲法違反だといっていきり立つほどのことでもない。問題は、むしろ親権と氏とか実際生活とかの結びつきをあきらめてしまって、ただ親権そのものの協議といってしまって満足するかということだね。その一線を踏み切って満足したのだから、一挙にすべて問題は解決したわけだ。
・・・引取りとか何かのときに協議するという規定はあって、ただ引取りに当然親権の規定をからませておっただけだだから、819条で協議が突如として現われたわけじゃないのですね。
離婚の場合の未成年の子の氏自体が協議できまる。
きまった氏とか引取りとかいうことに親権をからましておったわけですからね。
引取りの協議が調わなかったら、家事審判所がきめてくれて引取りもできる、そうすれば同じことですね。
実質的には親権自体が協議によってきまることになっている。
・・・819条にかえたのは、すっきりした形に直したので、実質的には・・・現われている。ただ親権だけをみると、いかにも憲法違反のような形にみえるというだけの話なんです。
非情に形式的にそいうだけのことだな。
親権の所在が前の案では自動的にきまり、あとの案は初めから協議できる、そこが違うのですね。前は氏を頼りにして自動的にきめるという案だった。司令部との折衝に一番骨の折れた問題の一つでありながら、実質的には司令部もこちらも根本的には大した意見の食い違いはない。それだのにもめた問題ですね。
結局、まん中は筋が通っていて、上をみているか下をみているかということの違いなんだね。
座談会について話者は省略してしまったが、意外に読みやすい
GHQと何をやらかして、そして、何か弁解的
令和の今、何が起きているか知って欲しい
父母の意見が一致しなかったらどうするべきか、わかっていて、わざと書かなかったという
その他上記太字部分が我妻氏の発言だが、要するに、規定を欠いていても問題にはならない、と開き直っているのである
父が決めると決めつけているのである
父の決定に異論があっても、母が家裁に駆け込むことがあるだろうか(ないよね)、と女が意見・行動しないものと決めつけているのである
そんな法律を放置してよいのか、ということは法律家であれば当然に否という答えにたどりつくだろう
男女平等の理念を目指すよう、憲法を変えられ、家制度も終焉させねばならない、しかし、現実には圧倒的な男女不平等社会が固定化している
法的に平等だといっても、妻が(母が)夫に(父に)口出しなどできるはずがなかろう、と
日本の実体に即して、無理やりと理想的な法を導入しても浸透しない、とでも考えたのだろうか?・・・いや、擁護の余地がないかもしれない
男女平等の原則を理屈としては頭の良さでわかっていても、心からは望んでいないゆえの発想だったのではないか
儒教的思想の尊属に対しては敬えという趣旨が刑法にも規定されていた時代のものである
親を否定する、ということはあり得ないとも思っていたかもしれない
監護という事実行為を法的に考える必要もないとして切り離していたり、得意の財産法に重なる部分(親権者が法定代理人となって未成年子の法律行為を行うこと)についてだけは定めておこうという発想かもしれない
そこに、幼い子を健やかに慈しみ育てるという発想はない
女をバカにした規定だったということがわかる
法的には、氏と親権の結びつきを解消し、実際の生活と関係なく親権の協議が可能になっていた
おかげで、一緒に暮らしていても、家族別姓が起こるし(同姓を強制されない)、離れてくらしていても同姓ということもあるし、同姓であることと親権の有無は決まらず、親子別姓でも親権のある親ということも起こる
法はそうなっているけど、
実際は、共同生活するのは同姓だろう
我妻のたくらみがそこにある
実際、今も、夫婦別姓・親子別姓に対する反対は強く、法の規定よりも強靭な思想という規範を温存させることに、我妻は成功したわけだ
こうした歴史を正しく知った時、もう単独親権制を維持しようなんて、できるわけがない
それにもかかわらず、女が男に意見するなんてことは起こるまい、と考えていた我妻の策略のまま、熱心に共同親権制への法改正を阻む層がいる
声が大きかったりする
滑稽でしかないわけである