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「役に立つからやる。」の呪縛から逃れよう

人間の心とは弱いもの。
多くの人が年齢を重ねるにつれ、若い頃のようなバイタリティ溢れる生き方ができなくなっていきます。
原因は様々ですが、肉体的な衰えや長く生きたが故に背負うことになったしがらみ等が挙げられるでしょう。
そんな時、自分とは10歳も20歳も離れた若者が活発に活動している姿を見ると、羨ましいやら僻みやら、あるいは応援したくなる気持ちやら様々な感情に襲われることになります。
つい先日、私にもそんな瞬間が訪れました。

狭まっていく自分の可能性と様々な可能性に満ちた若者の姿。
それを目の当たりにした時に自らを不甲斐なく思った自分。
一方で、彼らの可能性を少しでも伸ばすために自分にできることを考え巡らせた自分。
50歳を目前にして自分の中に生まれた相反する感情を吐露してみたいと思います。
年齢を重ねた人には「分かる。分かる。」と共感してもらえれば。
若い人には「中年は中年で大変なのね〜。」と年寄りを労ってもらえればありがたいです。

ではでは行ってみましょう〜。


若者のクリエイティブに接した瞬間

きっかけはふとしたことでした。
私が音楽業界に勤めていることもあって、入社してくる若者は何かしらの音楽的バックグラウンドを持っている人が多いです。先日話をしていた女性社員もそんな若者の一人。
彼女から学生時代に作った楽曲がApple Musicに上がっているからと教えてもらったので、興味半分でポチッとしてみました。
ぶっちゃけ「ま、学生の曲だからな〜。演奏も全部自分一人でやったって言ってるし、レベルは知れてるよなぁ。」とタカを括っていた私。

・・・・すみませんでした!!
チラッと聞いてみた瞬間、ガツン!と頭を殴られたような衝撃を受けました!(笑)
「え?これ学生時代に作ったの?しかも一人で???」と。

舐めてた訳じゃない。
舐めてた訳じゃないんだけど・・・・いや、舐めてましたね。完全に。
全部の楽器を一人でやってるとは思えないクオリティ。コーラスまで一人で入れて練られたハーモニー。
何よりちゃんと構築された世界観を表現しているところに驚かせられました。

私が学生だった頃は今ほどコンピュータで作れる環境がなかったため (プロならまだしも学生に手が出せる代物じゃなかった)、音楽を作ろうとすればソロでギターの弾き語りをやるか、バンドを組んでメンバーを喧々諤々しながら作るしかありませんでした。
弾き語りは自由にはやれますが大体独りよがりになりがち。
バンドは上手くはまればバンドならではの化学反応が生まれますが、それぞれが妥協して無理やり形にしたような中途半端な楽曲になる場合がほとんど。
「自分の世界観を一つの楽曲として構築する」なんて夢のまた夢でした。
というか、そもそもそんな大それたことを考えもしなかったと言った方が良いでしょう。

でも彼女の曲は違いました。
正直技術的には「まぁ、学生レベルかな」と思うところはあるものの、ちゃんと独自の世界観が反映されていた。その上、その世界観を表現するために様々な仕掛けが効果的に仕込まれていて、曲としての完成度もなかなかのものだったのです。

その曲を聴いて最初に思ったことは
「今の若い子はこんなことができる環境が整っていて良いな〜。羨ましいな〜。自分の時にもこんな環境が揃っていればなー。」
でした。
でも、次の瞬間に思い直したのです。
「じゃあ、果たして私が学生時代に同じ環境や設備が整っていたら同じことができたのかな?」と。
今の世代のクリエティブは果たして環境や設備があるからこそなのでしょうか?

現在の若者に感じる真面目さと寂しさ

果たして自分が学生だった頃に現代と同じ設備や環境が整っていたら、自分たちにも同じことができたのだろうか?
結論から言えば「NO」です。
そもそも私が学生だった時代には「自分独自の世界観」なんてものはなかったし、それを構築することができることすら思い描けませんでした。よって、仮に設備や環境が揃っていても恐らく「ふーん、そんなことやる人がいるんだ」で終わっていたでしょう。

では私たちの世代と現代の若者世代では何が違うのでしょう?
それを考える上で、私がその若手社員の楽曲を聴いた時に感じた、ある違和感について書くのが一つの補助線になる気がします。

私が感じた違和感とは「楽曲は確かにしっかり作られている。けれど、何だかこじんまりしているな〜。」というものでした。
言い換えると「無数の価値観が存在するこの世界の中で、自分という個人だけが住む小宇宙が一つの泡のようにふわふわと浮遊している」ーそんな世界観を感じたのです。
それは外側から見るととてもしっかりと綺麗に作られているし、とても純粋な美しさを持っている。
けれども、何だかとても孤独で、外界からの人の目に晒されるのを拒んでいるかのような、触れたら壊れてしまいそうな繊細さと物悲しさをまとって世界を漂っているような・・・とても切ない気にさせられました。

今の若者は真面目でしっかりしてる。だけど・・・

今の若者と接していると、私が若い時に比べてとてもみんな真面目で、いろんなことを考えています。周りの状況をしっかり分析して課題や問題を発見する力も備えています。
社会人だけでなく大学生でも同じです。私が学生だった時代とは全然違う。
私が学生だった時、あるいは恐らくその前の世代も
「やる前から深く考えても仕方ない。人生なるようにしかならない。走りながら考えて、その時々でベストを尽くしかない。そうすれば必ず結果がついてくる!」
と、半ば無鉄砲にいろんなことに取り組んでいました。

でも、今の若者にはそういう子は非常に少なくなったと思います。
とてもエネルギッシュで、思いついたことに何でも取り組むパワフルな子だと思っていても、よくよく話を聞くと
「周りの人たちを喜ばせるために何でもやるけど、自分から責任を持って引っ張っていくのは不得意。」
「とにかく失敗したくない。失敗から学ぶなんてしたくない。」
「自分のキャリアを磨くためにロールモデルになる先輩が欲しい。」
「答えがあるなら教えて欲しい」
そんなことを言う子がとても多いように感じます。

先ほどの小宇宙の話に絡めて言えば、自分という小宇宙が傷つくことがないようにしっかりガードしながら、なおかつ周りにたくさん浮遊する小宇宙を傷つけることがないように、慎重に世界を漂っているような印象を受けます。
他人を傷つけたくない。
自分も傷つきたくない。
無駄な時間は使いたくない。
だから、誰かが傷つくような事態にならないように、あるいは失敗を犯さないように、徹底的に分析し、状況を判断し、"正解"というよりも"間違い"ではない選択肢を選ぶ。
そうして作り上げられた"誤りのない世界"。それは確かにとても美しいけれど、そのために周りの世界との境界線を引いて、自分との距離を徹底して確保しようとする生き方は、とても孤独で寂しいもののように感じられてなりません。

創造とは「創(きず)を造る」こと。

最近クリエイティブという言葉をよく聞きます。
たとえば音楽だったり、写真だったりと、誤解を恐れずに言えば数値計算や理論モデルで製造される工業製品のようなものとは違った、人の感性を刺激するような創造的作品のことを指すようです (かなり大雑把ですが)。
私が聴いた新入社員の子の楽曲も、このクリエイティブの一つでしょう。

ところでこのクリエイティブ (creative)は一般的に日本語で「創造的」と訳されますよね。この「創造」って何でしょうか?
「創」という感じは「つくる」とも読みますが、「キズ」とも読みます (怪我した時に貼る”バンソウコウ”を漢字で書くと”絆創膏”です)。
人でも物でも状況でも何でも良いのですが、人が何かに出会う時、人の心は喜び、悲しみ、怒りによって揺さぶられます。それによって人の心は何かしらの負荷を背負うことになります。それが心の創(キズ)となる。
加えて、創は「はじまり」とも読みます。聖書にある「創世」とは世界を生み出すことです。
つまり、創造とは人が何かに出会い、創(キズ)を負った時、そこから新しい何かが創 (はじ)まるとも言えるのだと思うのです。

翻って考えれば、創(キズ)を負うことなく生み出された作品も確かに何かしらの芸術としての体裁は保っているのかもしれません。しかし、そこから何か新しいものが創 (はじま) る「創造 (creative )」だと言えるのでしょうか?
自分を中心としたこぢんまりとした小宇宙も、それはそれで良いのかもしれません。でもそれがどんなに大量に生み出されたとしても、そこに人が何かに出会うことによって背負う「創」がなかったとしたら、世界を動かすような新しい何かは生まれないような気がします。
別に文字通り「世界を動かす」ような大それたことをする必要はありません。しかし、自分というかけがえのない存在、唯一無二の存在がこの世界に存在する意味を示すためには、ほんのちっぽけなことでも良いから、「自分がいるからこそできる何か」を創(はじ)めることが大事なのではないかでしょうか。

現在の若者が作るものものは、絵画にしろ、音楽にしろ、あるいはゲームにせよ独特の世界観から構築されていてとても面白い物が多いと思います。
だからこそ、ここまで書いたような「創造」をこれからの若者がもっと貪欲に突き詰めることができるようになれば、世界はもっと楽しい、いろんな可能性が溢れたものになっていくような気がします。
そして、それを実現できるような環境を作っていくのが大人の役割なのではないかと思うのです。

可能性を閉ざしたのは誰か?

では、若い人たちを「創造」から遠ざけているものは何なのでしょうか?
私が思うに、それは昨今よく言われる「コスパ」「タイパ」に表れている「役に立つかどうか」ですべてを評価しようとする価値観、すなわち「有用性」に囚われた現代的価値観ではないでしょうか。

人の一生は無限ではありません。有限です。
日本人の平均寿命で言えば85年程度でしょうか。
その85年間という限られた時間の中で自分に何ができるのか。その目的を明確にして、それを達成するために努力することが素晴らしい。
それこそが"有意義な"人生である。
でも、若い人たちを見ていると、そんな考え方にある意味脅迫されているような生き方をしているのではないか・・・そのように感じることが度々あります。

自分がやりたいことや好きなこと。人生の目標を成し遂げるために、その85年間を可能な限りフル活用し最大の効果を得る。
そのためには無駄なルートなんて通りたくないし、どこかで負った「創(キズ)」を回復させるために寄り道するなってもっての外。最短ルートで間違いのない人生を送る。
それこそが”正しく、効率的な”生き方に他ならない。

自分が設定した未来の目標を達成するために最短で、効率的にタスクをこなしていくような生き方は、一見合理的なように思えます。しかし、別の視点から見ると、それは未来の利益のために現在を犠牲にする営みであるとも言えのではないでしょうか。
言うなれば、現在という時が未来に「隷従」させられている…そんな見方もできるのではないかと思うのです。

たとえば、昨今流行りのものにプログラミング教育がありますが、生成AIの技術が進めば数年のうちに人間がプログラミングをする必要さえなくなります。
自動車の運転免許も自動運転技術の普及によって必須ではなくなります。
英会話能力もまた通訳アプリの普及で、有用ではなくなり価値を失うかもしれません。
役に立つが故に価値あるものは、役に立たなくなった時点で価値を失います。
その”役立つもの”も、私たちが生きている今この瞬間の価値観がこれからも続くという、冷静に考えれば何の根拠もない希望的観測に基づいた砂上の楼閣に他なりません。
つまり、「役に立つが故に価値あるもの」すなわち有用性は、有用であるがゆえに瞬時にしてその価値を失うこともありえるのです。
では、有用性とは異なる価値観とは何なのか?
どういった価値観があり得るのでしょうか?

至高性:ただそれだけで価値のあるもの

有用性とは異なる価値の基準を考える上で参考になるのが、20世紀前半のフランスの思想家にジョルジュ・バタイユが提唱した「至高性」という概念です。

たとえばバタイユは、人の心を幸福で満たす瞬間を「至高の瞬間」と呼びます。
彼によれば、その瞬間はサラリーマンが一日の仕事の後に飲む一杯のワインによって与えられることもあれば、「春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝き」によってもたらされることもあります。
逆に、高級三つ星レストランで高額なディナーを味わったとしても、その味を堪能するのではなく「インスタ映え」や「こんな美味しい物を食べてる私ってすごいでしょ?」といったアピールを目的としたのであれば、それは単なる承認欲求を満たすために食事を消費あるいは利用しただけであり、”ただそれだけで至高の価値を持つこと”ではありません。
何かの役に立つからではなく、”それ自体”で満ち足りた気持ちになることができる体験。そのことをバタイユは「至高」と呼んだのです。

私たち近代人は誰もが、人間に対してですら有用性の観点でしか眺められなくなりつつあります。挙句「人間はすべからく社会の役に立つべきだ。」などという偏狭な考えにとりつかれているように思われます。
それは私たちが自らについて「有用性」すなわち「社会の役に立っているもの」にしか尊厳を見出せない哀れな近代人であることをあらわにしています。
先ほどのバタイユは、そのワインを味わうという体験そのものから得られる贅沢な時間を
「ワインに含まれるポリフェノールは体に良い」
などと言ってワインの効能を取り立てて、”未来の健康のための手段”へと変えてしまう有用性でしか価値判断のできない思考回路を次のように言って批判しました。
「こうした人間は詩を知らないし、栄誉を知らない。こうした人間からみると太陽は、カロリー源にすぎない
と。
自らの体験や存在意義をそれ自体の価値から引き出すのではなく、「社会に役に立つ道具」「未来に役に立つ道具」として従属させることで存在意義を捻り出そうとしているのです。
しかし、人間の価値は究極的なところ有用性にはありません。
人の役に立っているか、社会貢献できているか、お金を稼いでいるか、などといったことは最終的にはどうでも良いことなのです。
つまり、それらを目的とした人生とは、一見有意義で合理的な生き方に見えて、実は他人からの評価を高めるために自分の人生を無駄に消費するだけの虚しい生き方に過ぎないのです。

そのことを改めて想いを馳せ、「役に立つか立たないか」という有用性ではなく、「ただそれだけで意味がある」という至高性に着目して世界を見つめれば、この世界にはさまざまな可能性や創造性が広がっていくのではないか。そんなことを考えたのでした。

何だか最後が変なオチになっちゃいましたが(笑)、今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございました(^人^)

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