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怠惰からの目覚め

惰性のレールに乗っていると時間が早く過ぎる。


私の心は、私の肉体の中で、惰眠を貪り。


死という終着駅まで、寝過ごそうと考える。


私を起こそうとするものはいない。


まどろみの中

ただ、時間切れを待つ。


いつからだろう。


目の前の事がどうでも良くなり、

全てを面倒だと感じるようになったのは。


私の世界は、私の内になく、私の外にもない。


正の感情もなく、負の感情もなく、ひたすら虚しい。


虚しさすら、自覚できない程、虚ろである。


肉体だけで生きてきた

外の刺激に脊髄が反応し、肉体が動く。


という感覚だ。


私は、子供の頃から、生きる喜びのような物をあまり感じなかった。人生に冷めた感覚で、ただ、生きることに虚しさを感じていた。


そして、

  ●好奇心が刺激され、頭を使ったことも

  ●感動して心が動いたことも

  ●魂が震えた事も

なかった。


私の中には、そろばんがあって、面倒事を回避するために最小限の労力を使うという事だけをしてきた。しかし、その裏で、その打算を破壊してくれる何かと出会える事を期待したが、それに出会うことはなかった。


そうだ眠ろう

生きる事に虚しさを感じながら生きてきた私は、死ぬ理由がないから生きてきた。言うならば、加点要素がないが、減点要素もない人生を送ってきた。


そのうち、人生に減点要素となる、生きづらさを感じるようになった。


生きづらさを感じていた時。

死のうかと考えた時もあった。


しかし、

死を選択すると、悲しむ人間もいる。


また、死に損なった時の後遺症が怖く、痛いのも嫌だ。


肉体を殺すには、リスクとコストが伴うのだ。

かといって、生きて苦しむのか。

生と死どちらを選んでも苦しい。


だから、私は、

  死んだように生きて死ぬ。

  ただ、機械的に肉体的寿命を全うすることを考えた。そうすることでカドがたたないからだ。


そうして、私は、怠惰というレールに乗り、心を深く眠らせ、肉体的寿命迄寝過ごそうと考えた。そして、私は、穏やかな死を得ることだけを目的に生きる事にした。


内面的な死

私の心は眠った。深く眠った。


深い眠りは、死と何が違うだろうか。


時間感覚は次第に麻痺し、自分が内側から崩壊していく感覚を感じた。やがて、自分の本心が何を求めているのか分からなくなった。


私は、統計上は死んでいない。


周囲も私が内面が死んでいることに気付いていなかっただろう。


しかし、私は、私の中で、死に等しい深い眠りについていたのだ。


死によって目覚める

若さが私に問うた。やりたい事はないかと。私は、無視した。若さは去っていった。


死が私に問うた。やり残した事はないかと。私の心は目を覚ました。永遠の眠りたる死が、私を惰眠から目覚めさせた。


そして、私は、この世に未練があったのだと自分に驚いた。


久しぶりに世界を見渡すと、時間が大分過ぎたという感覚だ。心を眠らせた時の私は、若かった。だから、今は時差ボケのような感覚だ。


私は、私の中で眠りにつきながら、夢のような物を見てきた。それを形にしてから死のうと考えた。


しかし、私は、食い物でストレスを発散してきたから、肉体的寿命は、

  平均寿命  -  10年は覚悟している。


だから、残り時間は短いなと言うのが、今の正直な感想だ。


まずは、現状認識をしよう。次に終活の準備にかかり、バケツリストを作ろうと考え始める今日この頃だ。



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私塾黄金の波
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