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労働と消費のスパイラル

現在、気が向くことしかやらない生活をしています。

基本、生真面目なので、何かにつけて、自分を追い込みがちなのです。

なので、思い通りにできなくても、ならなくても、自分を追い込まないように心掛けています。

そうした中、ここ2か月ほどの間で、有償ボランティアとスポットバイトが入るようになって、改めて気が付いたことがあります。

社会とのつながりは必須。

帰国後これがしみじみとわかりました。

3月帰国、4月に現在のシェアハウスに移ってから、約1年3か月ぶりの東京生活を楽しんではいましたが、日本語でさえ誰とも話さない日が続くと、かなりメンタルに堪え、妙な焦りも出てきました。

また以前と同じように働くしか道はないのかとも考え、地域の就職相談にも出向きましたが、週5日の職業生活には戻りたくありませんでした。

というのも、それは少なくても私にとっては、「トラップ」であるし、「降参する」ことなのではないかと感じたのです。

ちょっとでも手持ちが潤うと使いたくなる衝動に駆られるのは私だけでしょうか?

振り返れば、「ご褒美」とか「一生もの」と言う耳障りのよい言葉で買ったものも、結局は「無駄遣い」でした。

多少は便利になったり、心が潤う(これが「優越感」というやっかいな魔物だったりもする。)かもしれませんが、以前のものでも、やり方でも生活はできていたし、「一生もの」には必ず結構なメンテナンスの時間と費用が掛かります。

時には、必要がありそうなものをわざわざ探そうとさえするのはなぜでしょう。その探求は、ストレス解消のような暇つぶしのような時間。実はそれもかなり「無駄な時間」。

インターネットを覗けば、街に繰り出せば、消費を促す「誘惑」の嵐。これに抗っているつもりでも巧妙な罠で購買意欲を掻き立てる戦略広告が溢れていて目が留まり、うっかり購入(ボタンを押)してしまいそうです。

現役時代は労働と消費で生活が回っていました。消費や所有が仕事のストレス解消であり、優越感に浸れる簡単で唯一の方法だったのです。

かくして、仕事→ストレス→消費(所有)、の無限ループ。

早期退職後は、原則、今あるもので生きていくこと、そして、共同占有(シェアハウス)生活を実践中です。

それには、無駄な消費を抑えるとともに、多少目をつぶらねばならないこともあるし、相手によって距離感を変える必要もあります。

年を重ねると、他人の話を聞かなくなったり、自分の過去の経験や考えやよかれを押し付けがちになります。

自分のよかれは他人のありがた迷惑だったり、自分の常識は他人には常識外だったりもします。

シェアハウス生活は、客観的に自分にそういう部分が出てきてないか考えたり、気を付けたりする練習場にもなり得るような気がしています(私の場合、これが身内的な家庭生活だと逆に歯止めがきかず、もっとストレスが溜まったであろうと思います。)。

そして、もし何か刺激がほしいなら、消費や所有で満たされる自分を変えなければ、「(無駄な)消費や所有のための労働」というスパイラルにまた戻されることになるでしょう。

年齢とともに、殻が厚くなっていき、強情になる、そして、年齢を理由に、もうできない、もう変われないと思い込む。

常に自分を脱皮させようという意識はいくつになっても、いや、むしろ、年齢が上がるほど必要なのではないか、と反省も込めて感じるこの頃です。

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