ちあきなおみ~歌姫伝説~29 矢切の渡し事件
以下・つづき
〈コロムビア(日本コロムビア・古賀註)は82年、ちあき(ちあきなおみ・古賀註)が76年に出した『酒場川』のB面『矢切の渡し』をA面にして発売。この曲を人気絶頂だった梅沢富美男が舞踊演目に使ったため注目された。その後、細川たかしからカバーの要請があり、83年には同じコロムビアから2人の「競作」として売り出された。
ところが彼女はビクターに移籍しており、コロムビアは途中でちあき盤を廃盤にした。ちあき盤はその年の有線放送1位となったが、レコード売り上げで細川に歯が立たず、細川は日本レコード大賞を受賞したのだ。音楽関係者は「弱肉強食の世界。細川盤を伸ばすための業界力学」と指摘する。事実なら、ちあきは再びオリジナル曲を他人に奪われる不運に見舞われたことになる。〉
(二〇一九年七月十一日付より)
この記事に見られる音楽関係者の指摘は、きわめて重要な事実であろう。
『矢切の渡し』の競作については数多くの文献が存在し、様々な観点からの比較論などがなされているが、それは私の主要な関心事ではない。たしかに、作曲者である船村徹の、
「『矢切の渡し』はちあきなおみのように聴かせなければならない」
という評や、梅沢富美男の、
「『矢切の渡し』はちあきなおみの曲でなければ踊らない」
という論は興味深いものの、私の見るところでは、その背後で起こったこと、つまり、記事に見られる、当時の細川たかし所属プロダクションと日本コロムビアの、超一流の謀略術を業界が是認した事実のほうがさらに重大なのだ。
この「矢切の渡し事件」を私なりにカバーさせていただくと、一九七六(昭和五一)年、『矢切の渡し』(作詞・石本美由紀 作曲・船村徹)は『酒場川』のB面として発表された。当時関係者のあいだでは『矢切の渡し』をA面でとの声もあがったが、ちあきなおみ本人の希望もあり、このような運びとなったとされている。
それから六年後の一九八二(昭和五七)年、"下町の玉三郎"と異名をとり、大衆演劇界の梅沢武夫劇団の看板女形スターであった梅沢富美男が、『矢切の渡し』に乗せて華麗に踊り舞う姿が注目され、この年のテレビドラマ、『淋しいのはお前だけじゃない』(市川森一脚本・TBS系列)の中で何度も放映された。その影響もあり、ちあきなおみが歌う『矢切の渡し』はにわかに注目を浴びるものの、すでにレコード(A面・酒場川盤)は廃盤になっており、有線放送にリクエストが殺到したのである。
楽曲の著作権を持つ日本コロムビアは、急遽、十月二一日に『矢切の渡し』をA面(B面・別れの一本杉 作詞・高野公男 作曲・船村徹)としてシングル発売に踏み切り、十二月発売の『演歌饗宴』という総集企画盤アルバムの中に収録するのである。これらの発売は、ちあきなおみ側には無断であったという。
「アルバムの製作を中心に、シャンソンやジャズなどを歌っていた頃だったので、イメージ的になんだかなあ、と悲観してしまった」
ちあきなおみはこの出来事を、まるで白々しい劇中劇を眺めるように、辟易として見ていたのだ。
なお、この一九八二(昭和五七)年は、事件とはまったく関係ないところで、郷鍈治は監督たっての要請もあり、映画『化石の荒野』(長谷部安春監督)と、テレビドラマ数本に出演し、その存在感を示すものの、事実上、俳優としての最後の活動となっている。
「郷さんは、俳優をやめるには勿体なさすぎる」
と、ちあきなおみは後年語っていたものだ。
ちあきなおみもまた、この年の十二月一日から放映されたテレビドラマ『ちょっと噂の女たちー黒田軟骨の女難―』(KANOX・MBS)で、劇中人物として、『矢切の渡し』をはじめ、『悲しい酒』(作詞・石本美由紀 作曲・古賀政男)、『圭子の夢は夜ひらく』(作詞・石坂まさを 作曲・曽根幸明)などの歌を、毎回劇中で一曲、生ギターの伴奏で披露している。このドラマへの出演はイメージ云々よりも、脚本の上質さや、プロデューサーであった久世光彦氏の強い希望を受けてのものだった。
そして話は、翌年の一九八三(昭和五八)年である。
前年の「第二四回日本レコード大賞」において、『北酒場』(作詞・なかにし礼 作曲・中村泰士)で大賞を受賞した細川たかし陣営が『矢切の渡し』に焦点を合わせ、三月一日に競作としてこの曲をシングル発売する。細川たかしも所属レーベルは日本コロムビアであり、レコードの売り上げ的に障壁となるのは、当然ながらちあきなおみ盤である。そこで、ちあきなおみ盤は生産中止となり、廃盤とされるのである。
この事実を、二〇二〇年代に生きる私たちはどのように咀嚼すればいいのだろうか。
その存在が邪魔だから消してしまえ、というようなレベルの話で、どうにもならないな、思想のかけらもなく救いようがないな、との意を抱いてしまわないだろうか。
それでも、七月に発売されたアルバム『有線ヒット歌謡ベスト』という総集盤の中に、細川たかし盤とともに収録していることから、これはもうなんでもありの、商業至上主義的な仁義なき世界であり、芸能界とは、どこまでいってもそういう世界なのだ、と書くしかできないのである。
そしてこのような状況下、犠牲になるのはちあきなおみシングル盤を求める聴衆である。利権に涎を垂れ流すプロダクション、歌を商品一辺倒にお家事情で出したり引っ込めたりするレコード会社と、まずは歌ありきという不文律が守られていたならば、また、大局観に立ち業界の発展を見据えていたならば、このような聴衆に対する背信行為はできるはずがないのだ。
ある意味、やってはいけないことをやってしまった。
そしてこの頃、週刊誌上などにおいて、ちあきなおみと郷鍈治を糾弾する根拠なき破局、離婚説が、幾度となく太文字で踊るのである。
おそらくこの事件の背後には、複数の業界実力者もどきの陰謀、そして、名もなき匿名希望者よる悪意が絡まっていたと言わざるを得ない。このことは、ちあきなおみが引き寄せた命運では断じてなく、明らかに、業界側の一方的な誹謗中傷である。しかしながら、この頃のちあきなおみの中には、一連の事件ですでに免疫ができており、取り立てて騒ぐこともなく、夫婦の会話のネタとして笑い飛ばしていたそうである。
弱肉強食のプロの世界が、どのようなものであるかわからぬではない。しかし彼らにとって、なぜ、ちあきなおみ盤を消し去らねばならなかったかという問題は、営利的観点とは別の、さらに本質的な問題に直面することを余儀なくされるのである。
それは、同年の一九八三年の有線リクエストランキングにおいて、ちあきなおみが歌う『矢切の渡し』が、年間総合一位を記録したからである。
この結果的事実は、その後の歌謡界、そして今後の業界の在り方に向けて、あらゆる意味合いを示唆している。
レコード会社やプロダクションが利得を追求することは、その商売の根幹をなす重要な軸であろう。そのことに恥を知る必要は無論ない。だが、ちあきなおみに対して行った卑劣極まる仕打ちと、当時の芸能界の様々な事情(大人の事情)と良識派に比喩される陳腐な謀略を、聴衆の前に呈出させたことには恥を知るべきであった。
ちあきなおみ盤『矢切の渡し』を廃盤にした悪政は、『矢切の渡し』という歌の風情、表情、即ち人間の薫りを求めた聴衆の願望によって、副次的効果たる結果を生んだ。
音楽業界関係者は、プロダクションとレコード会社がちあきなおみ盤を消し去ったつもりで消し損なった、その歌の本質にこそ聴衆の中心軸があるのだということを、レコードのセールス記録だけではなく、歌い継がれ、聴き継がれ、語り継がれ、そして、ちあきなおみ伝説の一角を占め、今もなお歌謡ファンの心に残る『矢切の渡し』の中に、厳しく思い知るべきであろう。
長々しいカバーとなったが、この「矢切の渡し事件」は、ちあきなおみが業界への不信感をさらに強め、増す幻滅、怒り、そして怨嗟的な情さえも生んでしまったことと思われる。それは、歌と人生に生きる真理を求め、ものごとを倫理的に思考する人間であれば無論であろう。
広く一般には知られることがなかったこれら両事件は、郷鍈治亡き後、ちあきなおみが表舞台に復帰することがなかった多大なる要因であることは間違いないと、私はここに断言する。
そして、ちあきなおみの歌を体感した人間のひとりとして、瀬のない憤りを禁じ得ないのである。
しかし結果的には、これらの要因がちあきなおみ伝説に拍車をかけたことは、なんとも人世の皮肉を感じてしまう。
記事の中にもあったように、一九八一(昭和五六)年、ちあきなおみはレコード会社をビクターインビテーションに移し、これまでとははっきりと方向性を変え、伝説を積み上げてゆくのである。前記した本人の言葉どおり、真摯にじっくりと好きな歌に取り組み、アルバム歌手として、アーティストとしての趣を見せながら、ちあきなおみ路線を劇的に繋いでゆくのである。
つづく
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