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【ネタバレあり】オッペンハイマーは日本人が見てはいけない


それは面白過ぎるから!!!


僕たちの国、日本という国家はとても変な国である。

世界で唯一の原子爆弾による被爆国でありながら、アメリカの持っている核兵器に守られて国際政治を生存している。

2021年、世界では核兵器禁止条約が締結された。ところが、日本はこれに署名していない。
子供の頃から、誰もが歴史の教科書で原子爆弾の恐ろしさを知り、非核三原則「持たず、作らず、持ち込まさず」を教えられたはずなのに、アメリカの核の傘に守られている故に反核兵器の国際条約に署名しない。
極めて特殊かつ微妙・絶妙なバランス感覚の国家である。

そんな日本では、原爆の話題はセンシティブだ。
ただでさえ政治の話はヒートアップしてしまいがちで、よほど親しい間柄以外ではタブーとされている。とりわけ、核兵器の話なんて普段は口に出さない。

だから、 「オッペンハイマー」がアメリカで2023年7月21日に公開され、そこから日本での公開まで半年以上も待たされたのも頷ける。

僕はノーラン監督のSF作品は大好きだが、原子爆弾の歴史を描いたドキュメンタリーを楽しめるか不安でもあった。それは映画ファンとしてもだし、日本人としてもだ。



オッペンハイマーに日本の視点は出てこない


映画「オッペンハイマー」は、原子爆弾の生みの親オッペンハイマー博士を描いた作品だ。
監督は「ダークナイト」「テネット」などで有名な、クリストファー・ノーラン。


「オッペンハイマー」は、アメリカ人による、アメリカから見た原子爆弾の開発、投下の話だ。
広島、長崎に落とすまでの経緯は詳細に描かれている。が、広島、長崎自体は直接的に映画に出てこない(オッペンハイマー博士が、広島・長崎に行っていないため)

核兵器を作成し戦争を集結させたオッペンハイマーは、第二次世界大戦における最大級の功労者として扱われる。そして、アメリカにおいて原子爆弾の投下は正義であったと論じられる。

劇中なんども繰り返される、核開発の是非を問う議論
Q.「原子爆弾を開発していいのか?」
A.「ナチスに開発される前に開発しないといけない」

Q.「ドイツは降伏した。原爆を作る大義はもうないのでは?」
A.「日本は降伏しない。実際に使わなければ、人々は恐怖しない。アメリカ人の死者を減らすために、落とさなければならない」

Q.「水爆は原爆の何倍もの被害をもたらす。抑止力としては原爆で十分で、水爆を開発する必要はないのでは?」
A.「ソ連は水爆の開発を行なっている。アメリカが追い越され、滅亡の危機に瀕してしまう」

手段と目的の転覆を繰り返し、人の意思とは無関係に膨張を続けていく科学。「研究することができる」という自由は、「研究しなければならない」という不自由となる。科学者は飽くなき探究心を満たすため、そして政治家は金・権力・地位を失うことを恐れて、あの手この手のロジックで軍事研究を正当化する。

やりたくはないが、仕方なかった。罪の意識もある
これが、アメリカからみた1945年の悲劇なんだろうなと感じる。

戦勝国としての狂気。
世界の警察としての責任感。
加害者としての罪悪感。

そうしたカオスを「オッペンハイマー」は描き切っている。

そこに、日本の視点は要らない。テーマと逸れたノイズとなってしまう。
さらに、現代日本に生きる僕達だって、当時の被爆者たちの感情を推察することが難しいのだ。アメリカが描く日本人の怒り・悲しみなんて、嘘くさいチープなものとなってしまうだろう。



かといってオッペンハイマー博士にも感情移入できない


映画「オッペンハイマー」は、オッペンハイマー博士の心情描写がほとんど出てこない。
モノローグは無いし、表情も終始うつろで、正直まったく感情移入が出来ない。とにかく頭がおかしい。彼の行動や言動は支離滅裂で、アイデンティティがどこにあるのか全くもって理解不能だ。

教授を毒殺しようとするも、後悔して踏みとどまる。

共産党パーティに喜んで出席するが党員にならない。
しかし共産党員のジーンと恋人関係となる。
しかし他の共産党員のキティ(人妻)を妊娠させ、離婚させた後に結婚する。しかし結婚後にジーンと浮気する。
しかしメンヘラのジーンを見捨てる。
しかしジーンが命を絶つと激しく後悔する。

原爆の開発には賛成で、数多の科学者を巧みに説得してロスアラモスの兵器開発に参加させる。ユダヤ系であることからナチスに対し強烈な危機感を抱いているとされ、ナチスよりも先に原爆を開発することに全力を注ぐ。
しかし、ナチスが降伏した後も原爆の開発・実験を辞めない。シカゴの科学者シラード達の反対を押し切り、日本への投下を目標としてマンハッタン計画を推し進める。
しかし戦争終結後は一転して軍縮派となる。水爆の開発には反対で、そのせいで多くの政敵を作ってしまう。

「原爆は良くて、なぜ水爆を作ってはいけないのか」

彼は劇中何度もこの質問を受ける。しかし、一度もクリティカルな答えを出さない。2回見ても、はっきりとした彼の意見は判らなかった。


それでも、彼の人生を見ているとワクワクしてしまう。目的の是非は置いておくとして、彼の天才性・カリスマ性という能力面は眺めていると楽しいのだ。



タイムシャッフルとコントラスト


この映画は、意図的に時系列をバラバラに描いている。
「1945年までの原爆開発」「原子力委員会での水爆是非の議論」「ソ連のスパイ疑惑を糾弾される聴聞会」「黒幕・ストローズの独白」の4シーンだ。

これらを、コマ切れにしてバラバラに配置している。時系列が直線ではないので、観客は神に近い視点で劇を覗くことが出来る。
このタイムシャッフルはノーラン監督の熟練技でもあり、観客が理解できる・できないのギリギリを狙っていて、見せ方が上手い。
例えば、ストローズのシーンだけを白黒にすることで、時系列が切り替わったんだなと直感的に理解させることができる。

タイムシャッフルモノクロ化はノーラン監督の「メメント」でも行われた手法だ。「メメント」では、
過去から近づく向きが白黒
現在から遡る向きがカラー
という、非常に直感的な対比で表現している。


しかし、「オッペンハイマー」では、時間軸が後のストローズ視点が白黒となっている。ここがメメントとの差であり、かつ直感と相反するところでもある。

ノーラン監督はモノクロ化によって何を表現したかったのだろうか?
ひとつの解釈として、僕はラストのセリフ「世界を破壊した」にヒントがあると考えた。

核兵器は、連鎖反応で世界を物理的に破壊することはなかった。
一方で、「防御不能な攻撃力」を誕生させたことで、絶妙な世界のシステムを根本から変えてしまった。
戦争では、お互いが本気を出すことを制限されるようになった。(なぜならお互いに滅んでしまうため)
あえて不謹慎な言い方をすれば、如何にルールに則った上で最小のコストで最大の成果を上げるかという経済ゲームとなってしまったのだ。

話を戻すと、ストローズのシーンが白黒である理由は、
「人類は自らが生み出した兵器の使用・開発を止めることが出来ず、世界はコントロール不能なカオスとなった」
ことをメタファーとして表す為ではないか。白黒であることによって、未来のアメリカはどことなく退廃的な雰囲気が漂っている。これは、戦争前の「破壊される前の世界」にはもう戻れないという暗示とも取れると思う。

事実、カラーで撮られている核開発のシーンはとてもテンポよく進み、(非常に微妙な感想ではあるが)ワクワクして魅入られてしまう。
科学者たちの熱量を感じ、オッペンハイマーのプロジェクトリーダーとしてのカリスマ性を感じ、世界の命運をかけた兵器開発の緊張を感じる。トリニティ実験が成功した時の科学者たちの狂気的な喜びは忘れられない。お前ら人殺しの爆弾作っとるんやぞ??


対して白黒シーン、ストローズのシーンは一回目では全然おもしろくない
登場人物が多く何が起こっているか分かりづらい、絵的にも地味、理解する前提条件が一周目だと揃っていない、ストローズが悪役として魅力に欠ける、等の点が挙げられる。
オッペンハイマーは2周しないと、全てを味わうことができない。


細かい対比が無数にある

オッペンハイマーは細かい対比だらけで、

・白黒とカラー

・秘密聴聞会で追及を受けるオッペンハイマー、公聴会で商務長官にふさわしいか判定されるストローズ

・原爆(オッペンハイマー)と水爆(テラー)

・原爆を作った科学者(セオリスト)と、落とした政治家(リアリスト)

・加速する足音の描写、終焉を暗示する爆破描写

・ナチス(反ユダヤ)とアメリカ(親ユダヤ)

・共産主義と自由主義

・精神的に不安定な恋人ジーンと、最後まで強い意志で支え続けた妻キティ

・「ゼロ」と「ほぼゼロ」

・祖国を捨てたアインシュタイン、祖国に尽くしたオッペンハイマー


探せば他にもまだまだあると思う。


おわりに

この映画を見て、僕は原爆についてよく分からなくなってしまった。

もちろん核兵器なんて存在しない方が良いに決まっている(これは世界中あらゆる兵器がそうだ)し、過去アメリカが日本に落としたのは大いなる罪だと思っている。
日本はアメリカの軍事力を借りずに自立してほしいし、その上で核兵器禁止条約にも賛成のスタンスを示してほしい。

その上で、

・人間の根本的な「知りたいと思う欲求」が、兵器の開発と噛み合ってしまうことを止められるのか。
・いま世界中に存在する核兵器を全て無くすことが現実的に可能なのか。
・もう1回歴史が巻き戻ったとして、核に対する恐怖を知らない人類に「落とさない」選択肢なんて選べたのか。
・アメリカの持つ「核の抑止力」を借りずに自立するということは、憲法9条を撤廃して日本が軍事力を持ち自衛能力を持つことが必要、という事になりかねない。もはや自国のアイデンティティの1部ともなっており、平和の象徴ともなっている不戦の条約を無くしてしまって本当に良いのか。そして、滅茶苦茶にミサイルを飛ばしてくる隣国がいる状況下で、核の傘に守られずに自衛する事なんてそもそも可能なのか。

こういった問題や矛盾を解消する事なんて今の自分には到底できない。
知らないで、考えないでいることの方がずっとラクだ。
難しいことは学者や政治家が考えてくれるし、こんな問題とは無関係に僕の日常は動いていく。だから、正直、考えるだけ無駄だという結論にいたってもおかしくはない。

しかし、映画「オッペンハイマー」はその圧倒的な面白さによって、僕の思考をハックしてくる。
考えないでいた方がラクな問題について、強制的に考えさせられてしまう。

日本人としてこの映画を見れて良かったなと思うし、日本人以外に生まれてこの映画を見たかったなとも思う。
そうしたらもっとニュートラルに楽しめたはずだから。


ノーラン監督に感謝と恨み節を送ります。

おわり

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