雑記㉘:『暖簾に腕押し続けるのは結構辛い』話をつらつらと
とある親子の降園時の一幕。
3歳児クラスの男の子が、何か気に食わないことがあったようで、帰り際に母に「嫌だー!」と大声で叫ぶ。母も慣れているのか、「そうなんだね。嫌なんだね」と優しい声でその絶叫に応え、これはあれは、と手立てを示すが、何に対しても「嫌だー!」の一点張り。それからやんわり20分程やり取りを繰り返していたが、見かねた保育士が仲に入り、男の子の話を聴き解決をした。
子どものことを「受け止める」と、耳にするし、大事なことだと僕も思う。しかし、保育や親子の様子を見ていると、果たして正しく「受け止めているか」疑問に思うことがある。
「受け止める」関わりと勘違いされがちなことに「受け入れる」関わりや、「受け流す」関わりがある。
「受け入れる」関わりは、時として必要なことはあるが、例えば、お店の中を走り回るといった、他人に迷惑をかけたり、社会的なルールを破ったりしている時、何も言わずにいるのは、気持ちを「受け止めている」のではなく、子どもの要求を「受け入れている」だけでしかない。
そうした関わりが先行していくとどうなるか。
要求をただ受け入れられ続けると、その子どもの自我が肥大する。成長ではなく肥大するというのがポイントだ。
本来は成長する中で、社会と自分の気持ちとの折り合いを付けられるようになるのだが、この自我が肥大し過ぎると、この折り合いが付けられなくなり、簡単に言えば我儘になる。
「受け流す」関わりはどうだろう。
降園時の一幕。母の関わりは、受け止めているようにも見えるが、「嫌なんだね」と相槌を打つだけでは気持ちを受け流しているに過ぎない。
子どもが自分の気持ちを整理したり正しく表現するための声かけはなく、ちょうど押しても押しても手応えのない暖簾のようで、どんなに叫んでも手応がない。子どももその手応えのなさに余計にイライラして叫ぶといった具合である。
では、「受け止める」関わりとはどのような関わりなのか。
まずは、読んで字の如く、子どもの言葉を受けて、止める必要がある。
お店の中で走っていたら、「今、走りたかったんだね」と。
嫌なことを叫んでいたら、「何か、嫌なことがあったんだね」と。
ただ、これでは受け入れるとも受け流すとも変わらない。大事なのはこの後に続ける言葉。
それは「でもね、」という逆説の一言である。
「受け止める」関わりの真骨頂は、この切り返しにこそある。
「でもね、お店の中は危ないから歩こう」
もちろん、この一言だけでも意味はない。
子どもの気持ちを受け止めた上で、社会の中で必要なことを伝えることに意味があるのだ。
さて、降園の一幕。「嫌だったんだね」と受け止めた後、皆さんならどんな切り返しをするだろう。
正解はないが、僕なら、「でもね、何が嫌だったか教えてくれないとわからないな」と、彼自身の要求を言葉にしてもらったと思う。
感情を表出するだけでは他者とのコミュニケーションは測れない。自分の気持ちを少しずつ言葉にすることが大切だと思うからだ。
この切り返しの中で、子どもは社会性や自律の心を育てていく。
子育てや保育の中で、この「受け止める」関わりを大切にしてもらえると嬉しい。やはり、暖簾に腕を押し続けるのは子どもも結構辛いものがある。
残暑厳しい中ですが、運動会に向けて頑張ります。
今年はどんなドラマがあるのか楽しみです。
9月2つ目の記事。調子が良すぎて逆に怖い。