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【校閲ダヨリ】 vol. 18 ら抜き言葉から知る言葉の有機性 (国語学基礎概説2 [前編])
みなさまおつかれさまです。
今回は、いわゆる「ら抜き言葉」と呼ばれる現象について解説してみたいと思います。例によって皆さんのお時間を頂戴しますが、見分け方も載せますので、難解な文法書を読むよりかはお手軽かな……と思いつつ、発車いたします。
《「ら抜き言葉」とは》
「見れる」「食べれる」「起きれる」「考えれる」など、可能の意味を表す語形で「ら」が抜けている現象。話し言葉で多く見られる。
「日本語の乱れ」としてマスメディアに取り上げられて久しいテーマですが、特に目新しい問題ではなくなっていますね。
最初にお断りしておくと、国語学的スタンスから書かれている専門書、論文で「乱れ」とうたっているものは少ないです。乱れていると言って(書いて)しまうと、研究者として墓穴を掘ってしまうことになりかねないからです。(国語学の世界ではこのような事象を「ゆれ」(表記ゆれとはまた別です)と呼んでいます)
そもそも乱れというのは、どこかに絶対的な基準があって、そこを基点として逸れたり動いたりすることをいいます。なので、「日本語の乱れ」とすると、「絶対的な日本語」がないといけません。
……しかしそれはどこにあるのでしょう?
例えば、仮に昭和中期〜平成初期を基準として考えましょうか。その時点の日本語を正とすれば、ら抜き言葉は乱れにあたるかもしれません。(実際には、ら抜き言葉は昭和初期には使用が始まっていたとされますが……)
では、昭和中期〜平成初期の日本語は……おそらく前の時代から見たら「乱れ」ていたんじゃないでしょうか。
つまり、絶対的な日本語などどこにもないということなんです。
ルールが先にできて、その後で成立した言語なんて、世界中どこを探してもありません。文法がある言語は多いですが、それはあくまで統計的に言葉を整理したものに過ぎません(しかも、「その時点現在で整理」です)。
言語は、ヒトが他者とコミュニケーションをとるために自然発生的に生まれ、使われる中で変化しつつ受け継がれてきたものです。
言語学者たちはそのことを十分に理解していますので、断定はせず、歴史の傍観者のように外側から見つめ、言葉のいち変化としてとらえている方がほとんどです。(私も然り、です)
かの有名な金田一春彦先生はその著書の中で
「乱れ」という概念は「オーソドックスな言語学にない概念である」(金田一2004、第2巻)
と指摘しています。
では、ら抜き言葉ですが、これは現在非常に微妙な立ち位置にある現象だと考えることができます。
「間違いとは言えない」のに、使用がふさわしくないとされる場面が存在するからです。
イメージとして、「きっちりとした言葉遣いを求められる場」では、使用を避ける向きにあります。
現在主流の言葉遣いが存在することは事実ですので、多くの人の目に留まるものを発信するマスメディア業界はその事象自体をしっかりと理解した上で、慎重に言葉を選んでいく必要があると私は思っています。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、そろそろ具体的に見ていきましょう。
そもそも、なんで「ら」をつけないといけない動詞があるんでしょう。
これは、皆さんが義務教育期間でならった学校文法の知識で解決できます。
(忘れた方でもわかるように書きます)
動詞に可能の意味を持たせるには、助動詞の「れる」「られる」というアタッチメントをつける必要があります。
どちらをつけるかは、動詞の種類によって決まります。
この時点で「●●+れる」/「●●+られる」という2つのグループに分かれますね。
つまり、これが問題の大元です。
ら抜き言葉として問題になる動詞は、すべて「られる」のアタッチメントをつける必要があったのです。
ちなみに、「読める」「話せる」など、ら抜きで問題ない動詞は「れる」のほうをつけるのですが……ちょっと様子がおかしいですね。
「る」しかついていません。
これ、実は「ら抜き」と同じような現象が起こっていたんです。
その昔は単純に「読まれる」「話される」だったのだろうと推測されています。
……ん? ら抜きより全然複雑そうではないか。
たしかに、ひらがなで追うと難しそうですよね。こういう場合は、音をより細分化して見ることのできるアルファベットというツールを使います。
読まれる → 読める
yom ar eru → yomeru
話される → 話せる
hanas ar eru → hanaseru
どちらも ar が消えていることに気がつきます。
不思議なことに、「書かれる→書ける」「行かれる→行ける」などでも ar 部分のみが消えています。これは、特定の語に起こった現象ではなく、一般化するほど広範に及ぶものだったとされています。(面白い現象ですので、思いつくものを紙に書いてやってみるといいかもしれません)
「『読める』の元々の形が『読まれる』だなんて信じない」という方もいるかもしれませんね。
では、こんな風に話している人に出会ったことはありませんか?
・こんな文字が小さい本、私には読まれないわ。
・明日の町内会の集まりだけど、行かれなくなっちゃったのよー。
・え?? なに?? ちょっと電話が遠くてあんたの声聞かれないわ。
たぶん、年配の方がこんな感じで話しているのを聞いたことがあるんじゃないでしょうか。
これは、変化の過程を実感できる珍しい例とされています。
ar が消えた背景としては、単に発音の効率化の問題と、可能形が「受身形」と同じ形になってしまってわかりづらいという問題があったという説が有力ですが、これはまさしくいまの「ら抜き」と同じ状態ですよね。
このように詳しく見ていくと、「ら抜き」も言語が生きやすいように形を進化させているうちの一例ととらえることができます。
……それはあくまで学問の世界の話であって、ビジネスの世界では当面「ら抜き」は必要なさそうなんだけど。
そんな意見も聞こえてきそうな展開になってしまいましたが、皆さんの知識を「付け焼き刃」にしないための校閲ダヨリですのでお許しくださいませ。(大切なのはいつも「本質」です)
大事な場面で「ら抜き」しない方法は、後編でしっかりと解説いたします。
それでは、また次回。
参考文献
原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』(講談社・2012年)
金田一春彦『金田一春彦著作集 第2巻』(玉川大学出版部・2004年)
日本語文法学会『日本語文法事典』(大修館書店・2014年)
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