【校閲ダヨリ】 vol.70 「怒ったりしてごめん」に指摘を入れるのですか? 接続助詞「たり」
みなさまおつかれさまです。
慌ただしく毎日が過ぎ、いつの間にかもう3月です。
笑ったり泣いたりできる日常がいかに尊いものかを意識せずにはいられない今日この頃。
言葉の仕事をしている私はどうしようもない無力感を覚えているのですが、孔子の「近き者は説(よろこ)び、遠き者は来たる」に立ち返り、自分の周りからあらためて「言葉の大切さ」や「言葉で生きやすさが変わること」を伝えていきたいなと考えています。
相手に伝えたり、相手から伝えられたことを理解して未来(近くても遠くても)の行動に生かすのは、人間性の最たるもの(人間にしかできないこと)だと私は考えています。
それを放棄することは、人間であることを諦めることなのではないか。
どうあれば持続可能で、共生できるのか。考え続けたいものです。
さて、それではだんだんと本題に入りましょう。
校閲者という職人は、「誤植があったらあなたのせいね」というそこはかとない(いや、“確固たる”かも)重圧を日々負いながら仕事をしているのですが、その代わり、差し引きされている役割もあると私は思っています。
それは「判断すること」。
自分が書いたものではないので、当然といってしまえばその通りなのですが(してはいけないことのひとつでもあります)、文責は常に筆者にあります。
とはいえ、「このままいくと危険」という場面ではもちろん鉛筆(黒字)で指摘を入れていきます。
対象はさまざまで、慣用表現の場合もあれば、差別・不快語の場合もあります。
「指摘を受け取り再考する」「ママでいく」かの判断をするのは筆者や、権限のある場合は編集者となりますが、「鉛筆を入れるか入れないか」は校閲者が判断しているということになるわけです。なので、まったく判断をしないということではないんですね。
「間違いを探す」という点においては、デビューしている以上どの校閲者も「均質」であるはずですが(否、そうでなければなりません)、この「指摘における能力」には個人差があると私は考えます。
特に文法や表現に関する指摘は、「校閲者のステレオタイプ」が出やすいと感じています。
「満点の星空」と出てきたら「満天の星」として指摘をするという風に。
(ちなみに「満点の星空」は、造語とすれば通せなくもない表現だと私は思います)
今回は、校閲者にかかわらず、言葉の仕事をしている方であればよく目にする表現「たり」(接続助詞)についてのお話です。
接続助詞の「たり」って、「〜たり、〜たり」のように、並べて使うのがマストなのではないの?
確かに、そう認識している方が多いのは事実です。
「マスト」とすると、「どんな時もそう使いなさい」と受け取れてしまうので私は好きではないですが「多くの場合」とはいえると考えます。
接続助詞「たり」は並立(並列)助詞とも呼ばれ、「か、なり、とか」と同じカテゴリに属します。
「たり」は、述語に付くことができる(述語の並列ができる)点が独特で、「名詞」には付くことができないという特徴があります。
「一緒にゲームをしたり、散歩をしたりした」って感じで使うのよね?
そうですね。「する」という動詞の連用形「し」があると接続できますが、
「ゲームったり、散歩ったりした」という風に使ってしまうと原則からかなり外れた使い方になってしまいます。
うんうん、それはわかる。でも、そもそもなんで「たり」ひとつじゃダメなの?
「一緒にゲームをしたり、散歩をして過ごした」のような使い方のことですね。
最初に言っておきたいのは、言葉の世界で「完全に間違い」とか「ダメ」とかになってしまうことは本当にひと握りということです。
多くの言葉の使われ方は、現在から過去を統計的に見て、「数が多く、綻びが少ないもの」をベースに組み立てられており、今回の「たり」でもそれが味わえます。
——ネットを調べると「〜たり、〜たり」に関して多くの校閲・校正的メディアが発信しているのがわかりますが、2回使う理由としてメジャーなものが「辞書に『〜たり、〜たりの形で』と出てきて、用例でもそうあるから」です。
私は国語学由来の独特なスタンスということもあり、あまり他のメディアの言葉に関する発信を先に読むことはしないのですが、今回も「ああ、やっぱりそんなところね」と思った次第です。
つまり、辞書に書いてあるといっても、「原則として2回続けて用いる」という記述ではないわけです。
たくさんの辞書があるので、もしかしたら中にはあるかもしれませんが、私の調べた『日本国語大辞典』『大辞泉』『広辞苑』あたりでは、ルールが存在するかのような書かれ方をしているものはありませんでした。
ですので、「原則として2回続けて用いる」というよりかは「2回続けて用いることが一般的」といった感じの捉え方がストレスを感じにくいかと思われます。
「『怒ったりしてごめん』に指摘を入れるのですか?」としたのはなんで?
これはですね、「『たり』すなわち2回使用!!」といった公式のように覚えてほしくはないので、目を引く書き方をしてみたのです。
「〜たり、〜たり」の主な根拠が辞書というのはもっともな話です。ですが、お話には続きがあるもの。そこで満足せずに、もう少し先まで読んでみましょう。(『毎日ことば』さんではこの先のことについても言及があります)
『日本国語大辞典』には、こんな風に書いてあります。
「怒ったりしてごめん」は、この用法にあたると私は判断するので、指摘は特に入れる必要はないと判断します。
「怒ったりして」では「怒鳴ったり」「汚い言葉を使ってしまったり」など、いくつか紐付く状況が暗示されますものね。
なるほど、これも、辞書に書いてあることなんだね。
おっしゃる通りです。
さらに言えば、こんな記述もありますよ。
これはもしや?
そう、「一緒にゲームをしたり、散歩をして過ごした」のような、「たり」ひとつのパターンです。
辞書中で挙げられている例としては
と、100年以上前から使用されていたことがわかります。
(3)なので、新しめの使われ方ということにはなりますが、(2)の用法が広く成立していることを考えると、そこから派生・転用するハードルはそれほど高くありませんよね。
このあたりを判断して、指摘を入れるか入れないかで悩んでいるのが校閲者です。※用語表でハウスルールがある場合はそれにのっとりましょう。((3)の場合は、私は指摘する場合がほとんどです)
うーむ、そうか、「正解」という概念って、意外と脆そうだな……。何を信じればいい?
私が常々申し上げているのは「TPO」は、正解の「コア」たり得るだろうということです。
「時」「場所」「機会」ですね。
ビジネスでは、同僚との会話とお客さまへお送りするメールではもちろんNGになる表現に差が出るでしょうし、プライベートでも、自分のパートナーに話しかける言葉遣いがそのままお子さんに対しての正解になるかといえば、そんなこともないわけです。
出版では、ターゲットの読者層はあるにせよ、どなたでも目にしていただく機会があると考えるのが自然ですので、やはり自ずと指摘は増えることになりますし、「このような理由の下、指摘は入れていません」と書くこともあります。
いずれにせよ、言葉の世界で「プレタポルテ」が歓迎されることはそれほどないのだと私は日頃感じています。
相手に合わせて、「オートクチュール」していく。
対象が見えないと不安になりますが、しっかり自分で調べたことに自信を持って「だから私はこう言いました/書きました」と理由がいえる表現は、おそらく間違ってなどいないはずなのです。
それでは、また次回。
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