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【校閲ダヨリ】 vol.76 僕の大叔父さん 〜歴史を学ぶということ〜
みなさまおつかれさまです。
今年も、早いものでもう年の瀬になってしまいました。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
毎年恒例となりつつある、『校閲ダヨリ・スペシャル』(年1回ペースなので勝手にスペシャルにしています)ですが、今年は私の大叔父(父の叔父)について話してみようかと思います。
直接的な言語のお話ではありませんが、私の長年の疑問を一瞬で解決に導いてくれた大叔父からの、
普段の生活ではあまり得ることのできない示唆を、みなさまにもぜひ共有させていただきたいという思いで書かせていただきます。
さて、私の大叔父ですが、その名を「石毛忠」といいます。
名前出しちゃったね?
はい。そうなんです。
本を書いていたり、ウィキペディアにも出てきたりするので大丈夫です。
石毛 忠(いしげ・ただし)
1938年、千葉県生まれ。東北大学大学院博士課程修了。大東文化大学文学部専任講師を経て、防衛大学校人文社会科学群(人間文科学科)教授。北京日本学研究センター教授。現在、防衛大学校名誉教授。2013年、瑞宝中綬章受章。
と、私なぞ到底及ばない世界を歩く「逸材」なのですが、私のことを「剛ちゃん(たけちゃん)」と呼んでくださる
至って優しい大叔父であります。(以降、おじさんと呼ばせていただきます)
そんなおじさんが、この夏、私と父に「久しぶりに遊びにおいで」と言ってくださり、
私と父はいそいそと一人暮らしのおじさんの分のお弁当も持参して、ご自宅を訪ねたわけです。
おじさんの専門は、ざっくりいうと歴史になるのですが、なかでも「日本思想史」の大家であります。
私が出版に携わることをおじさんも知っており、書斎を見せていただくことができましたが、
これがもう、凄まじい本の数でした。
図書館ならまだしも一般家庭にスライド式の書架があるなんて、私は聞いたことがありません。
現在は、自身の研究の集大成となる論文の執筆に邁進しているおじさんですが、
驚いたのは「手書き原稿」だったことです。
スマホやタブレットを使いこなすおじさんですが、原稿は「手書きが良い」とのことで
それを編集者に送っているそうです。
ここに、本来の「校正」の役割を見出すことができます。
そもそも校正とは「手書きの原稿」と「活字組版したゲラ」を一文字一文字見比べること(「引き合わせ」「付け合わせ」とも)を指しました。
現在は、ほとんどが「活字になった原稿データ」からコピペで組版するため、この本来的な校正作業が必要なくなっており、
「校正」といって指し示されるものが「素読み(ゲラ単体を読み、誤植を探すこと)」に変化しています。
ですが、変化したからといって「見比べる」ことができなくてもいいかというと、全くそんなことはないわけです。
現在では、「正となる資料とゲラを見比べる」というところに、この技術が必要になります。
ですので、現代の校閲者も「引き合わせ」はできます。(できないとダメです)
さて、おじさんの原稿を文字起こしする編集さんのご苦労を慮りながら、私は自分自身の「歴史」という学問に対する姿勢を振り返ってみました。
歴史って、日本史・世界史、覚えることがたくさんあるよね。
そうですね。義務教育〜大学入試まで、どうしても「暗記ベース」の学問だなという印象は私も抱いていました。
「完全に、当時に戻って真実を確認することができない」時代が存在するのも確かです。
そのため、得意か不得意かは置いておいて、新たな史料や有力な学説によって「覚えていた事実が変わる」ということも発生します。
近年では、鎌倉時代のスタートについて、大きな更新があったようです。
「校閲者の自分」という視点で見ると、私は歴史が苦手です。
それはつまり、「拠りどころとする情報」が明確に定まりづらいことが理由です。
教科書も辞書も役に立たない記述がそこかしこにあふれ、監修の方が書いたという本で拾うしかない状況が、ストレスになることも多いです。
「今苦労して調べても、10年後この本を読み返した誰かに『全然違うじゃん』と言われてしまう可能性もあるな」と考えることもあります。
しかし、現時点で自分のベストを尽くすべく、結局毎回脂汗をかきながら調べるのです。
かなり不躾だとは思いましたが、せっかくおじさんとお話しできる機会でしたので、
このような「私の歴史観」をぶつけてみました。そして「何のために我々は歴史を学ぶのか」と。
おじさんは
「確かに」
と言った後、こう続けました。
「『歴史的な事実』が本当にそうであったのか、いやはや違うのか、そんなことは大した問題じゃない。そこに『学び』はないよ。
『歴史を学ぶ』『歴史から学ぶ』とは、当時を生きた人物たちの思想を学ぶこと、思想から学ぶこと。
それは、現代を生きる人が自分の人生の中だけでは到底達することができない教訓や、智慧にタッチできるということ。
そう考えれば、少し歴史をやってみたくならないか?」
これはもう、私にとっては電気ショックでした。
これほどまでに明確な回答があるでしょうか。
小学校〜高等学校の教育の多くに言えることだと私は思っていますが、「何かを学ぶ過程で自然に身につくことを取り立てて、あえてやっている」現状があるように感じます。
「テストを作るにあたり、採点しやすさの点から、もっともらしい事項をピックアップする」「そのテストで良い点を取るために、そういった事項を中心的に覚える」
というのが大きな流れです。(現在、大学入試がこの点から脱却しようと試行錯誤している段階かと思います)
国語という教科でたとえると、漢字や文法、文章が一般的な解釈で正しく読めるか、敬語を正しく使えるかなどというのは、本来的には「何かを読んだり、人とコミュニケーションを重ねていれば自然と身につく」ことではないでしょうか。(ですので、「国語力を伸ばすには?」と質問されたら私は「毎日、新聞を読んでください」と答えます)
理系科目は少し違うと感じられるかもしれませんが、「この問いを解くにあたり、自分にはこれが足りないから調べながらやってみよう」と動いていれば、そのうち掛け算も公式も、身についていると私は思います。
趣味も、スポーツも、同じようなことが起こってはいないでしょうか?
ギターを弾くにあたって、まず「F」を練習してから何か曲をという人はおそらくいないはずですし、まずは自宅でゴルフのスイングを完璧にしてから打ちっぱなしに行く人もあまりいないでしょう。釣りであればまずは水面に投げてみる、ランニングであればまず走ってみる。フォームチェックや理論は「次第に、自然に手に取るようになり、身につく」のが本来の「流れ」のような気がします。(「〜道」のような学びは、「修行」「稽古」が根底にありますので少々異なる点がありそうです)
そして、流れに逆らわず得た学びは、他分野とつながる(つなげられる)ことが多々あるのです。
一つのスポーツを長くやると、身体のコンディショニングの分野にも詳しくなるように。
お恥ずかしい話、歴史に関してはこの本質的な部分が私の中で見出せずにいたのです。
それを、おじさんはとても上品に上質に、私に示してくれたのです。
「そうか、歴史は『人』なんだ」
と気づくことができた今回の訪問は、私にとって値千金だったのです。
日本の学校教育も、こんなふうになればいいのにね。
そうですね、これが理想の学問の形だと、今の私は思っています。
ただ、学問には時間がかかるのも事実です。
たった十何年の教育期間では、詰め込み型の教育になるのもある種仕方のないことのようにも思えます。
だからこそ、「本当の学問を好きなだけできる」というところを、今一度大学進学のベネフィットに据えるべきなのではないかなと。
「就職するための大学」では悲しすぎますよね。日本全国、本末転倒があふれています。
加えて、「学問はあらゆる分野で、現在の自分の居場所を拠点に行うことができる」ということもいえるのではないでしょうか。
人生は、学校卒業後の時間のほうがはるかに長く、さまざまな出来事に満ちています。
「第一志望の学校・会社に入れなかった」ことは、学問においてどれほどの影響があるのでしょうか?
そこに「良い先生」はいないかもしれませんが、基本的に学問は、自分1人でできるものだと私は考えます。
私の愛してやまない『男はつらいよ』にて寅さんは
「己を知るために学問をしているんでしょ」(第16作「葛飾立志編」)
と言いました。
これは、「学問」を「5教科7科目の勉強」と同義にしてしまうと解釈がしにくいですが、「趣味」「仕事」「子育て」などあらゆることを学問と捉えることで、ずっと飲み込みやすくなります。
転じて、人生は、ずっと学問であり、それは自分の意思でいくらでも調節可能なのです。
そして、学問をしている人は美しい、と私は思います。魅力の塊なので、その人から学びを得たいと思います。
例えばコスプレに熱中する過程で、自分にはない表現をしている人に出会う。その真髄を知りたいとその人とコミュニケーションを取る。
その人のエッセンスを自分に取り込む。こうして学びの輪が広がります。
少し、生きやすさが増してきましたか……?
私は物事の捉え方を変えることで、自分の環境を最大限生きやすくすることばかり考えているんです(笑)。
さて、最後におじさんの話に戻っておしまいとなりますが、
そんな歴史学者であるおじさんが、唯一目を輝かせて私を羨ましがってくれたものがあります。
それは「JapanKnowledge」です。
「『日本国語大辞典』を図書館に行かずして引けるのか?!」と。
「はい、ケータイでいつでもどこでも見られます」と私。
キラキラした少年のようなおじさんの調べ物に、その後私は一役買うことができたのでした。
おじさんへ。
この夏はとても豊かな時間をありがとうございました。
走り続けるおじさんの姿はとても眩しく、僕自身の励みにもなりました。
またお会いできる日を楽しみにしています!
2024年末
初頭五餅校閲事務所 代表
伊藤剛平
日ごろ初頭五餅校閲事務所をご贔屓にしてくださる皆さまへ。
本年も大変お世話になりました。
来年も、変わらぬお付き合いができますように。
ご入用の際は、お気兼ねなくお声がけください……!
本稿をお読みくださる皆さまへ。
今回のお便りはいかがでしたでしょうか?
少しでも、皆さまの学び、生きやすさのお役に立つことができましたら幸いです。
風邪が流行っておりますので、年末年始くれぐれもご自愛くださいね。良いお年を!
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