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社会運動に参加する者に日当が支払われていることの何が問題なのか

改めて「社外取締役 島耕作」騒動を振り返る

 漫画家の弘兼憲史さんの「社外取締役 島耕作」において辺野古基地の抗議活動に日当が支払われていると登場人物に語らせたことがきっかけとなった騒動について、弘兼憲史さんのかつての出鱈目な表現と、簡単に謝罪して抗議者に成功体験を与える愚について批判しました。
 なお、画像は「沖縄」で検索してヒットしたものをお借りしています。

 しかし、この騒動はもっと大きな問題が潜んでいると私は思います。日本人の金銭に対する意識です。
 例えば、冤罪であると訴えて再審を求める死刑囚などの弁護人を務める弁護士が手弁当で支援しているなどというニュースを聞くことがありますが、これらの弁護士は一銭の費用負担額の補填も受けていないわけではありません。費用を補填するためとしては明らかに少ない額の補填を受けて弁護活動を行っている弁護士と一銭の費用負担も報酬も受けていない弁護士を比較すると、弁護士として割に合わない仕事を本人の考える社会正義のために受任するという観点において何ら変わるものではないと思います。
 「虎に翼」というNHKの連続テレビ小説において、塚地武雅さんが演ずる弁護士が「報酬はもらっている」と依頼者からもらった野菜などを指さすシーンがあります。これは明らかに費用負担ではなく報酬であるという表現ですが、この弁護士がお金を持っていない者の依頼を受けているという観点で考えるならば、何らその評価を損ねる行為ではないと思います。

日当は報酬ではなく費用負担の一種である

 普天間飛行場に辺野古移転に反対する運動について、次善の策によって「世界一危険な基地」である普天間飛行場の危険性を除去するという観点がまったくありませんから、私は批判的に見ています。しかしながら、抗議する者が何らかの社会的正義があると考えて活動しているということ自体を批判するつもりはありません。活動の手法として抗議行動によって警備員の命が失われ、その責任から逃げ回るようなことをしなければよいのです。
 そして、金銭的に恵まれていない者が社会運動に参加してはならないなどということはありませんから、何らかの費用負担を誰かが行うことも何の問題もないはずです。そもそも、日当とは費用負担の一種であって、社会運動に参加した際に水分補給のために飲む飲料や、普段は家で自炊する者がやむを得ずに外食せざるを得なかった分を補填するなどの雑費に充てられるものであって、報酬などではありません。このような日当が支給されていたとして何か問題があるのでしょうか。仮に報酬的な側面がある金銭が支給されていたとして、普段の仕事を休んで来ていることに対する休業補償的な側面をはみ出さない限り、問題がないと思います。

無償での活動に対する神話

 このような騒動が発生する原因には、日本人が無償で活動することに理想としすぎている意識の問題があると思います。
 私がかつて参加していた新しい歴史教科書をつくる会で内紛が発生したとき、参加者の一部が講演をなす理事に報酬が支払われているのではないかと批判していたことがありました。その批判に対して「大人の対応として10万円支払っています」と回答しました。新しい歴史教科書をつくる会の理事が講演を受けた場合の報酬は10万円などという額におさまるはずもなく、何ら問題がないと思っていました。
 また、被災地への募金を募る団体が事務費として何らかの金銭補償を受けていることに批判をなす方も目立ちます。被災地への支援は継続的になされなければならない側面から考えても、支援者に過度の負担を強いる仕組みはあっという間に行き詰まることが見えているにもかかわらず、無償での活動を殊更に美談とする日本人の感覚こそが大きな問題であると私は思います。