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菅野完さん、60年ほど長くはありませんが、電話機で暴行を受けた同居女性の長年の苦しみぐらい想像してあげてください

 画像は菅野完さんの大好きな黒電話の画像をお借りしました。

簡単に想像することができる同居女性の苦しみ

 菅野完さんが

昨日、東京駅で見かけたポスター。 東海道新幹線開通から今年で60年と書いてある。
60年という数字をみて、ふと「この60年は、そのまま、袴田さんが冤罪で苦しんだ期間に重なるじゃないか」と気づき、その場にしばらく立ち尽くしてしまった。 https://instagr.am/p/DAdrStiyxSy/

@noiehoie

 菅野完さんは、ご自身の暴行事件において被害を受けた同居女性の長期間の苦しみにまったく配慮することができていないようです。

テキサス州キリーン市警のロバート・バーク巡査が現場アパートに急行したとき、顔面が血だらけになった女性は、泣きながら床にへたり込んでいたという。加害者の男は、女性を介抱するでもなく、「凶器」となった電話機に付着した血を洗い流すべく、キッチンの流しに立っていた……。
これは安手の海外ミステリーの書き出しではない。著述家・菅野完(すがのたもつ)氏(43歳)が、21年前に米国・キリーン市警に逮捕された際、捜査報告書に記された内容だ。
この1年半にわたり、森友学園問題を追及してきた菅野氏の活躍にはめざましいものがあった。森友学園の塚本幼稚園の園児たちが「安倍首相がんばれ!」と発言する異様な動画を手に入れ、そもそもの発端を作り出したのも菅野氏だし、安倍昭恵夫人から森友への「100万円」寄付疑惑の根拠とされた振込用紙を入手したのも菅野氏である。
ベストセラー『日本会議の研究』では大宅賞読者賞も受賞した菅野氏の、ジャーナリストとしての活動には、本誌も敬意を払いたい。
だが、この菅野氏に重大な疑惑が浮上した。
菅野氏には、米国で2度にわたる「女性暴行」での逮捕歴があり、刑事事件となっている。そして逮捕状が出ているにもかかわらず、いまも「国外逃亡中」の身だ—。
2度目の逮捕では、裁判所に出頭しないまま国外逃亡を果たしたため、この逮捕状は現在も有効である。その重大性に鑑み、プライバシーにも配慮したうえで、現地警察の捜査記録や員面調書、テキサス州ベル郡の裁判所での公判記録など多数の資料をもとに、菅野氏がいかにして「逃亡犯」となったかを記そう。
冒頭の事件は、「第1の犯行」である。キリーン市内のセントラル・テキサス大学(2年制)に在籍していた菅野氏は、まだ22歳。ガールフレンドだったのが、交際1年になる同級生の日本人・A美さん(当時20歳)だった。
'97年8月27日、夜7時頃、菅野氏のアパートで事件は起こった。
「6ヵ月前にも似たようなことがあって、彼の暴力で指を怪我しましたが、もう耐えられません。顔を怪我し、鼻の形まで変わってしまった」
と直筆で綴られるのは、当時A美さんが警察に提出した上申書だ。何が起こったというのか。
「彼の電話料金を支払えと言われたんです。私は彼の電話を使うときは、必ず彼の許諾を得たうえで、フリーダイヤルだけを使っていたから、料金を支払ういわれはないと拒否した。すると、彼は私に電話料金の請求書を投げ、さらに電話機を私の顔に投げつけたんです。それで大量の血が鼻から流れ出ました。警察を呼ぼうとしましたが、彼は電話機をとりあげ、何度も私を叩き私を押し倒したので、私は叫び声を上げて隣人に助けを求めたのです」(上申書より)
A美さんは近隣の病院へと移送された。捜査資料によれば、鼻からの流血はひどく、カーペットやソファ、ドアにも血が付着しており、菅野氏本人の手や腕、シャツやジーンズにも血が付いていた。9月5日、菅野氏は市警によって傷害罪で逮捕され、キリーン市拘置所に収監された。
'98年5月29日、テキサス州ベル郡第2裁判所は、菅野氏に対して判決を出す。菅野氏は争わなかったので、罰金650ドルなどの支払い命令と、12ヵ月の保護観察処分が言い渡された。
だがこの判決日の直前、「第2の犯行」が起こっていた。1年前とは別のキリーン市内のアパートに、2人の警察官が急行したのは5月23日夕方だ。
「一緒に住んでいるボーイフレンドに顔を殴られたと(女性が)証言したので、ボーイフレンドを逮捕した」(捜査報告書)
左頬は赤く腫れ上がっていたという。なんと、またも被害者はA美さんだった。罪名は、前回の「傷害罪」ではなく、「家族や同居人への傷害罪」に変わっている。いわば「ドメスティック・バイオレンス(DV)」罪というべきものだ。
A美さんとは「同棲」状態にあったとみられるが、2度にわたる逮捕となると、「DV常習者」とみられてもおかしくないだろう。
菅野氏はすぐさま保証業者に立て替えさせて2500ドルの保釈金を納めた。ところが—。
'99年6月25日に開かれたテキサス州ベル郡第2裁判所での公判に、被告である菅野氏が姿を見せることはなかった。当日出された「仮判決文」は、保釈金没収を宣言した後、こう記している。
「被告の再逮捕の令状発行を求める」
菅野氏は、保釈中に逃亡したのである。保釈金の保証業者に対して支払いをしていないことも、明らかになっている。
記録によれば菅野氏がセントラル・テキサス大学に在籍していたと見られるのは、'98年8月まで。「第2の犯行」の後、姿をくらませた。日本に帰国後、菅野氏はサラリーマンとして活動しながら、やがて執筆活動を始める。ベストセラー『日本会議の研究』が出版されたのは、「第2の犯行」から18年後のことである。
本誌の取材に対し、当の菅野氏はどう答えたのか。7月30日発売の週刊現代では、菅野氏の告白が掲載されている。

週刊現代「森友追及のジャーナリスト・菅野完氏に米警察から逮捕状が出ていた」

 菅野完さんは、暴行事件の公判において親族が亡くなったことで帰国してしまったと主張していますが、この間の同居女性であった被害者の苦しみは想像するに余りあります。自分に暴力を振るった人間が公判途中で姿を消し、警察や司法もその所在を把握することができていないという恐怖、事件にきちんと気持ちの整理をしたいと思っているのに20年経過しても事件が解決しないもどかしさ。菅野完さんが心から事件について反省していたのならば、長い期間苦しめられた人物として真っ先に思い浮かべるのは、菅野完さんと何の関りもない袴田巌さんではなく、ご自身の起こした暴行事件の被害者なのではないでしょうか。
 なお、菅野完さんの米国での暴行事件については、山口貴士弁護士が受任して事件解決のための司法機関との交渉がなされ、菅野完さんの有罪が確定して罰金の支払いがなされたことで逮捕状が失効し、事件は終結していることを改めて申しあげておきます。