北新地リンチ事件と「 #エル金は友達 」というセカンドリンチを招いた反差別活動内の偏見と思い込み

地方公共団体がレイシストに集会場を貸すことの是非について

 かつて、朝日新聞の入社式で「朝日新聞は悪を見つけるのが使命」と述べた訓示がなされたことがありました。私はこれは根本的に間違っていると思います。マスコミが見つけるべきものは悪事であって悪と称される悪人ではないからです。
 朝日新聞の訓示の例と似たようなものとして、反差別運動家らのレイシスト認定があります。はすみとしこさんの漫画については、個人的に不快なものであり改めて見ようとも思いませんが、仮にはすみとしこさんの表現を事前に規制しようとするのであればやり過ぎで、事後的に刑事や民事で責任を取らせればよいのです。そもそも、どれだけ反差別活動家に都合のよい解釈をしたとしてもはすみとしこさんについては、過去にヘイトスピーチをなしたことがある人物であるというだけに過ぎません。言い換えれば、はすみとしこさんがレイシストであるかどうかについては議論の余地が残っているとも言えるでしょう。
 仮にはすみとしこさんがレイシストであったとしても国や地方公共団体の集会場をルールに基づいて借りる権利を妨げられたり、集会を行う権利を認めないなどということがあってはなりません。なぜならば、レイシストが集会場で必ずヘイトスピーチをなすとは限りませんから、事前に規制をなす前提条件が欠けているからです。付け加えれば、集会場の中で行われる講演会や会議は、仮にヘイトスピーチがなされたとしても、閉ざされた空間の中でなされるものであって、街頭宣伝活動などでなされるヘイトスピーチと比較しても影響が非常に限定的であるという側面もあります。
 ところが反差別運動に関わっている人物にそれがわかっていない者が多くみられます。 反差別活動家の発する言葉のすべてがレイシストに対するカウンターであるはずもないのと同様に、レイシストが発する言葉すべてがヘイトスピーチであるはずがありません。したがって、その発言によってヘイトスピーチであるかどうかを判断すればいいにもかかわらず、差別やレイシズムをなくすために最も重要なその検証をなそうとしないのです。それは、いわゆる行動する保守が反日勢力と認定した者がなす行為すべてを国益を損ねる行為と認定しているのと重なります。

反差別活動家たちのレイシスト認定は正しいのか

 レイシストの発する言葉すべてがヘイトスピーチだと信じ込んでいる反差別活動家たちにとって、レイシストであるかどうかの判断が重要になってきますが、それもまたあやしいものとなっています。その典型ともいえるものが、「レイシストと関わったらレイシスト」というものです。しかしながらそれは反差別を標榜する者が決してなしてはならない思考だと思います。なぜならば、それはかつて日本に部落差別が根強く残る原因となった「ブラクと結婚したらブラク」というけがれの思想に基づいた差別意識そのものであるからです。 
 具体例を挙げれば、元チーム関西の荒巻靖彦さんの経営する店舗の接客を評価したからレイシスト、そのレイシストと親しくしているからレイシストなどという一つの杜撰な認定があります。これは「ブラクと結婚したらブラク」などというような意識をなくそうとするなど部落解放同盟が必死に部落差別解消のための活動としてなした成果を無にする行為をなしていると言えます。ただ、何代にもわたって日本に在住して日本の物の考え方を吸収してきた在日コリアンと思われる人物がこのような発言をするのを見ると、日本の悪い面を吸収しなくてもよいのにと思わざるを得ません。

 この「ツツジの花」と名乗る人物は、大阪市の天王寺で彼自身がレイシストと認定した人物と会話するために飲食店を訪れただけでなく、その人物の発言に対して賛同することもあったと聞きます。そして、聞くところによると飲食店にいた者の一人からリンチ事件の音声記録CDが付録としてついている「カウンターと暴力の病理」をプレゼントされたそうです。これ自体は意見の異なる人物と会話して理解を深めるということにすぎませんが、「ツツジの花」を名乗る人物の論理に従えば、彼自身がレイシストであるという結論になってしまうのではないでしょうか。
 なお、これらの杜撰な認定は、死刑確定囚の支援に尽力している方に「死刑囚を支援しているなど殺人を肯定しているのと同じ」、殺人など凄惨な罪を犯したとして被告人となっている者の弁護をする弁護士に「殺人者を擁護するのか」などと批判する野蛮な行為につながっていきます。

被害者の聖人化が被害者を追い詰める

 そして、そのような者が同時に行うのが、被害者とされる者の聖人化です。かつて「すき家」のワンオペが問題となったときに反差別運動で指導的な立場にあるbcxxxさんが「あとすき家で勤まってるバイトの人らはすき家以外にナンボでも働くところあるっつうの」となしたツイートはその典型でしょう。

すき家のアルバイト採用に他の企業と比較して抜きん出て卓越したノウハウがあるという話を聞いたこともありませんし、すき家のアルバイトが画期的な成果を残したという話しも聞いたことがありませんから、ワンオペ問題当時「すき家」でアルバイトしていた者は、他の企業で働く者とほぼ同じ割合で仕事ができる者、できない者が含まれていると考えるべきですが、彼らにとってはそうではないのです。彼らは、仕事ができる誠実なアルバイトがワンオペで苦しんでいるというストーリーを脳内で勝手に作り上げ、同時にすき家への批判を先鋭化させているのです。
 これは、北新地でなされた凄惨な大学院生リンチ事件の加害側のシンパのセカンドリンチへとつながっていくと思います。反差別の象徴となる人物の聖人化が進んだことで、そのような余計なイメージを守るために被害者である大学院生を誹謗中傷し追い詰める、それが 「#エル金は友達」 運動だと思います。 そして、大学院生に有形力を行使したとして書類送検された者は、その行為の非道さを認めて謝罪文を提出したにもかかわらず、舌の根もかわかぬ間にその内容を反故にしましたが、支援者らの差別の被害者の聖人化に自ら言動を制約されたとも言えます。
 彼らについて、リンチ事件への反省が足りないという批判はあって然るべきですが、「被害者は誠実に人生を歩んでいたのにいわれなきヘイトスピーチの被害者となった」という被害者への聖人化から「誠実に人生を歩んでいなければならない差別の被害者がリンチをするなどあってはならない」という意識にとらわれていた面がないとは私は思いません。そもそも、ヘイトスピーチの被害者が暴力事件を起こしていようと、その私生活が怠惰なものであろうと、被害者自身が参加する反差別運動においてレイシストとヘイトスピーチをソフトランディングさせるために話し合っていようと、ヘイトスピーチの被害者であるという事実は1ミリも変わらないのですが、それによってヘイトスピーチの被害者の立場における何か大事なものが毀損されると考えることは、前述の政治的思想的な発言とは別のレイシストの仕事を褒めるとレイシストであるという認識を裏返したものであるとも言えます。そのような意識は、民事訴訟で大学院生の請求一部認容という加害者側の敗訴に終わったにもかかわらず、リンチがなかったと裁判所が認めたなどと法曹であるはずの弁護士が的外れの主張を発信するという事態を招き寄せています。
 そもそも、請求の認否に不要な余計な判断をしない裁判所が判決主文の理由として私刑であるリンチであるかどうかという判断をするということはないのは明らかなのですが、弁護士がそのような発信をしてしまうわけです。これもまた差別の被害者の聖人化という意識にとらわれたものだと思います。