見出し画像

神原元弁護士の稚拙そのものの「天皇制」論とその周辺の議論

神原元弁護士の「天皇制」論を読む

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「正義は勝つ」というチャイルディッシュな発言や住民監査請求が「リーガルハラスメント」という法に基づいて権力を監視するという弁護士の立場すら忘れたかのような発言でお馴染みの神原元弁護士がnoteを始めていらっしゃいます。

人は生まれながらに法の下に平等でなければならない。この当たり前の大原則に反するのが天皇制だ。

原理原則の問題だけではない。先の大戦を振り返ってみよう。天皇陛下万歳と言いながら沢山の将兵が死んだのだ。裕仁天皇がまともな神経の持主なら、責任を取って最低限退位すべきだったし、当時の価値観に照らせば自決するのが筋だった。天皇制はこの時点で廃止されるべきだったのだ。

ところが、天皇は真っ先にマッカーサーに会って命乞いに成功した。マッカーサーも「コイツは使える」と思ったのだろう。

ヒトラーは自決したし、ムッソリーニは民衆になぶり殺しにされた。 ところが裕仁天皇は象徴と称して統治機構の中心に居座り、日本人は歓喜でこれを迎えたのだ。実に愚かで不道徳で馬鹿馬鹿しいというほかない。 日本人の無責任、倫理観の欠如の根源は、むしろここにある。

天皇制は無責任と倫理観欠如の根源であり、今すぐ廃止されるべきだ。

まだある。豊下 楢彦「安保条約の成立」(岩波新書)によれば、安保条約の成立に際し吉田内閣は対等条約を目指していたのに対し、裕仁天皇は裏で米国と取引し、全土基地方式の屈辱的な不平等条約を結ばせてしまったという。 裕仁天皇は、国内外の共産主義を抑えるため米軍を利用しようと考えたのだ。

要するに、現代の対米従属を作ったのは天皇であり、天皇制は属国と売国の象徴なのだ。存置していい理由が見当たらない。

このように、象徴天皇制というのは、なんの根拠もない、マッカーサーが仕組んだ出鱈目であり、要するに裕仁天皇を殺させないためだけに作った制度なのだ。 天皇はその地位を悪用し今の対米従属体制を作った。百歩譲ってそれを認めたとしても、裕仁氏が死んだことで歴史的役割は終わったのである。どんなに遅くとも天皇制は裕仁氏が死んだ時点で廃止されなければならなかった。

法の下の平等という大原則に照らし、また、歴史的経緯をも考えれば、天皇制を存置すべき理由は見当たらない。

一日も早く廃止すべきだ。

初出 2022年4月26日 Twitter 今般若干加筆した。

神原元「天皇制は廃止すべきだ」

歴史修正主義者であることを露呈させた神原元弁護士

 神原元弁護士のnoteに感じる第一の違和感は、歴史的事実をねじ曲げていることです。昭和天皇はマッカーサーに会った時に太平洋戦争をはじめとする先の大戦に関わる全責任を自分が負うと述べて、命乞いや責任回避をすると思っていたマッカーサーを感動させたというのが歴史的事実であるわけですが、神原元弁護士は何を見て昭和天皇が命乞いをしたと判断したのでしょうか。神原元弁護士の「天皇制」論で述べられる昭和天皇とマッカーサーの面会の場面で昭和天皇が命乞いに成功したという表現は、歴史小説のように史実や解釈が定まっていない部分に創作を加えるのですらなく、何の史料にも解釈にも基づかず、歴史を改竄する行為に他なりません。これは、神原元弁護士ら左翼思想の者が意見が対立する者への批判として多用する歴史修正主義者というものをはるかに超えるものであると言えます。
 ただ、神原元弁護士のお気持ちも分からなくもありません。自由法曹団という日本共産党に近いイデオロギーの団体に属する神原元弁護士としては、昭和天皇が戦争の全責任を負うなどという立派な発言をなしていては都合が悪いのでしょう。
 なお、人は自らがよく知らない人物が何を考えているかを推察する場合に

「自分ならどうするか?」

という価値判断で考えてしまいがちです。ただ、あれほどXで勇ましい発言をなさっている神原元弁護士が

「私が昭和天皇の立場なら命乞いをする」

と考えて「命乞いをした」などという考え方をなさっているはずもなく困惑しています。

昭和天皇に戦争責任はあったのか

 今から何千年ほど経過し、ひょっとしたら日本という国の存在すら無くなってしまったかもしれない未来の歴史研究において、太平洋戦争後の日本国憲法下の日本では、国民主権という民主主義に基づいて国家が運営されていたものの、天皇が三権を統べて、国会、内閣、司法は天皇の名で任命されて輔弼する存在であったという歴史解釈があったとすれば、現在を生きる私たちはそれが誤りであると判断することができます。ただ、日本国憲法を条文通りに読むと、内閣の助言が具体的に日本国憲法で規定されておらず、後世の者がこのような解釈をすることは十分に考えられます。現在の日本では内閣の助言がないと天皇は動くことができませんし、物議を醸した上皇陛下が譲位の意向を表明されたメッセージについても、天皇が内閣の反対を押し切ってなしたものなどではなく、内閣の承認を受けて発信されたものです。つまり、法令を考えるにあたってはどのように解釈され運用されているかを考えることが重要で、その専門家が法曹という実務法律家であり、法律学者という研究者であるわけです。
 しかしながら、歴史研究においては法律学に基づく分析がなされることはほとんどないと言ってよいでしょう。例えば、開戦前の御前会議において昭和天皇は戦争を避けてほしいという意思を歌に込めて伝えましたが、御前会議では昭和天皇の意思を反映させることなく開戦の方向で進むことが決まりました。この事実を解釈するにあたって法律学による分析がなされているものを私は見たことがありません。

昭和天皇の歌をどう解釈すべきか

 この昭和天皇の歌について妙な解釈をなさる方がいらっしゃるようです。

「よもの海」は素直に読めば、明治天皇の「平和愛好の御精神」が発露した「平和を望んだ歌」と読めます。世界中平和で仲よくやっていきたいという、ありがたい精神が表現された和歌として。
 昭和天皇ご自身も、こうした常識的な解釈によって「よもの海」を毎日鑑賞していたからこそ、御前会議で“錦の御旗”として持ち出したのです。
 しかし、この和歌の成立時期を調べていくと、和歌の解釈は大きく違ってしまいます。「よもの海」は明治37(04)年2月10日に詠まれました。その日は御前会議で日露戦争開戦が決まった日で、御前会議の直後に詠まれていたのです。自分の本意ではないが、国策として大国ロシアと戦うことが決まってしまった。「平和を愛好する」明治天皇が、「やむをえず戦争を容認する」という苦衷の歌だったのです。
 明治天皇は日露宣戦の詔書で「豈(あに)朕が志ならむや」の一文を書き加えました。「よもの海」の三十一文字に託された「平和愛好」と「開戦容認」を集約した言葉が「豈朕が志ならむや」だったのです。
 昭和天皇は、偉大なる祖父のその無念に重ね、自身も日米宣戦の詔書に「豈朕が志ならむや」と加筆することになります。

週刊朝日「昭和天皇の『よもの海』に隠された”からくり”とは?」

 明治天皇が詠んで日露戦争が止まらなかった反戦の歌であるから、昭和天皇がそれを知って太平洋戦争に踏み切らせるために同じ歌を詠んだという珍解釈ですが、この解釈には決定的な事実の解釈が欠けています。それは、天皇が大権を行使した事例がほとんどないということです。
 昭和天皇は、摂政となってから日本国憲法施行までの間大権を行使することができる立場にありましたが、その間天皇が大権を行使したのは二二六事件のときと終戦のときに限られています。摂政時の関東大震災や五一五事件などという混乱時においても天皇が大権を行使して政府を指揮したり、混乱を防ぐために天皇が国民に呼びかけることはなく、政府が事態の収拾に当たっていました。これら事例から考えられるのは、天皇の大権の行使には何らかの条件が付与されていて、条件を満たさない事例では政府の案を承認することしかできないという憲法の解釈が行われていたということです。そして、二二六事件、終戦時とその他の事例で異なっている点をあえて探すならば、政府が意思決定をなすことができない状態であったことが挙げられるでしょう。二二六事件事件では襲撃を受けた大臣が桁違いに多く、生存していた大臣についても連絡を取ることが難しかった状況で、総理大臣のみが殺害された五一五事件事件とはまったく異なります。つまり、天皇機関説でパージされた美濃部達吉貴族院議員の研究どおりに大日本帝国は統治されていたわけで、政局とした当時の皇道派がいかに国のことをわかっていなかったかが明らかになるとともに、現在においても様々なお言葉から上皇陛下、天皇陛下、皇嗣殿下のご意思が直系優先、長子優先の皇位継承にあることを忖度することができるにもかかわらず、保守派を自称する者が一度皇族から離れた者の末裔に対して婚姻などの事由がないにもかかわらず新たに皇族としようとしているのを見ると、令和の「天皇機関説事件」が進行しているように感じます。