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異文化に配慮した理科教育とは?

この記事は『理科教育 Advent Calendar 2022』12月9日の記事です。
また、オンライン読書会(https://twitter.com/ScienceEducat10)における発表および議論の内容(①ポストコロニアリズム、先住民族学生、科学教育先住民や少数民族の生徒のための文化的配慮をした科学教育)をまとめたものです。この章では『科学的知識』とは絶対的なものではなく、それぞれの民族文化によって異なるといった多元的な見方に立ち、伝統的な民族文化を考慮した理科のカリキュラムや指導はどうあるべきかについて、議論しています。

科学的知識の異なる捉え方

「科学的知識」とは誰にとっても同じでしょうか?それとも、民族や文化によって異なる「科学的知識」があるのでしょうか?
科学に対するこれらの捉え方は前者は普遍主義の立場、後者は多元主義の立場に基づいています。普遍主義では科学を文化に左右されない単一のものであると捉える一方で、多元主義では科学を社会的・文化的に構築されたものであると捉え、それぞれの文化における科学があることを認めます。

近代科学と土着の知(伝統的な生態学的知識)の比較

ここでは、普遍的な科学として頻繁に代表される近代科学とそれぞれの民族で受け継がれてきた民族科学の違いについて述べます。多元主義では科学は社会的・文化的に構築されたものであると述べましたが、それぞれの科学はどのような文化に基づいているのでしょうか?本章においてはそれぞれの民族文化を基にした土着の知(Indigenous Knowledge)と対比して、西洋文化を基にした西洋近代科学(Western Modern Science)と示されています。また、下のスライドではそれぞれの性質の違いを示しています。

伝統的な知と近代科学の性質の比較

近代科学と伝統知との大きな違いとして、知識の文脈性が挙げられます。
近代科学では研究対象を単純化し、制御可能な実験環境から得たデータを知識源とすることによって、知識を特定の文脈に依らないものとしています。
その一方で、土着の知では観察などから得られた実証的な結果のみならず、コミュニティ内に共有されている精神的世界や信念、環境との相互作用などを広く含めて知識源とすることによって、知識を特定の文脈の中でのみ機能するものとしています。
この知識の文脈性、および事象に対する説明力・予測力の違いが、普遍主義の立場において「近代科学こそが科学である」という主張を推し進める根拠になりうるのだと考えられます。

近代科学と土着の知における動物分類の違い

ここでは、近代科学と土着の知における科学的知識の捉え方の違いを、動物分類を例に見てみます。現在、私たちに広く馴染みのある近代科学の知識において、動物分類は主に分子生物学の手法を基にした系統分類に基づき、以下のように分類されることが一般的です。

日経プラスワン2016年7月2日付より

一方で、東南アジアのパプアニューギニアに住むカラム族の土着の知において、動物分類は長年におよぶ観察の結果だけでなく、彼らの信念や自然に対する伝統的な世界観に基づき、以下のように分類されるそうです。

桑山尚司. (2002). 開発途上国の理科教育開発における民族科学の意義と役割. 国際協力研究誌. 広島大学大学院国際協力研究科, 8(2), 51-63.より

ここで、カラム族の伝統的な世界観が科学的知識に反映された例として、羽が無く、二足歩行の動物のカテゴリーにヒクイドリのみが分類されていることに注目します。

ヒクイドリ

カラム族に伝わる神話において、ヒクイドリは人間の親戚であるとされ、特別な存在である『森の象徴』として扱われています。実際にカラム族の人々がヒクイドリを狩る必要がある際には大量の血が流れないように鈍器で殺したり、狩りの前後には儀式が行われ、狩りを行なった者はしばらくの間、カラム族にとって神聖な場所であるタロイモ畑へ近付くことが出来ないという慣わしがあるそうです。(Carol Kaesuk Yoon 『自然を名づける なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』三中信宏・野中香方子訳 pp.137-140)

このように文化によって異なる科学的知識が存在する際に、普遍主義の立場では系統分類に基づく動物分類が真の科学的知識であるとして、カラム族の動物分類は誤った科学的知識であるとします。一方で、多元主義の立場では系統分類に基づく動物分類も科学的知識の1つであると認め、カラム族による動物分類も科学的知識の1つであると認めます。
私たちは文化によって異なる科学的知識をどのように捉えるべきなのでしょうか?この問いに対して、科学教育の文脈ではポストコロニアリズム(植民地主義)というパラダイムに立った議論が交わされています。

科学的知識の捉え方とポストコロニアリズム(植民地主義)


ポストコロニアリズムとは大戦中に列強諸国が植民地政策として、各地で同化政策を進めたことに起因する、被植民地の人々の文化やアイデンティティの喪失を防ぎ、取り戻そうとする⻄洋の近代化への批判・抵抗運動です。

ポストコロニアリズムという点で近代科学と土着の知の関係性について見ると、文脈を超えて事象の強い説明力や予測力を持つ近代科学が支配的となりすぎるあまり、特定の文化内で積み重ねられてきた土着の知が取るに足らないものと見なされます。さらには土着の知を共有するコミュニティ内部の人々でさえも土着の知を意味のないものと見なしてしまい、その結果として特定の伝統文化を礎に長年築き上げられてきた知識を放棄してしまうことが危惧されます。

さらには、近代科学の植民地主義に学校教育が加担してしまう恐れもあります。学校での理科学習においては、基本的に近代科学に基づいた知識を基に進められます。しかし、土着の知を持っている生徒にとってはカラム族の動物分類と系統分類に基づく動物分類が異なるように、異なる知識体系に基づく知識を学ぶことになり、そこに教師の適切な介入がなければ、学校の理科授業が近代科学に基づく知識を同化する役割として機能することになってしまいます。そのため、教師は教室内の生徒の伝統知やそれぞれの文化を考慮した指導を行う必要があります。

文化を考慮した理科カリキュラムと学習指導

ここでは土着の知を共有する人々にとって、どのような配慮をすべきか、カリキュラムと指導の点から見ていきます。
まず、カリキュラム開発にあたっては土着知を持つ人々への配慮をカリキュラム文書に明文化し、その必要性を公的に示すことや、カリキュラム開発に伝統民族のグループを参画させ、文化的な配慮が担保されていることを確認することなどが挙げられます。

次に、理科教師も適切な文化的リテラシーを身につけた上で学習指導にあたる必要があります。例えば、特定の生徒が持つ土着の知を取り上げて、その知識にまつわる情報と理科授業で扱う知識を結びつけるなど、文化的な違いを認識し、それを積極的に教室の中で活用しようとする姿勢が求められます。

最後に、教授の枠組みとして、文化人類学的アプローチを取り入れた理科授業が挙げられます。
『人類学的学習論』においては、人間は無意識に複数の文化間(家庭の文化から学校文化など)へと移動を行なっており、そこに大きな文化的隔たりがあると、文化間への横断ができなくなります。この文化的異質性を解消する方法として、教室において談話の場を設け、土着の知と教室で学習する科学的知識について、談話を通してそれぞれの知識を解釈し、新たな科学的知識として作り上げるといった社会文化的なアプローチが挙げられます。
また『併存学習理論』では人間は複数の認知枠組みを併存させることが可能であるとし、それらが徐々に融合し、新たな知識として習得されるとも述べられています。

さいごに


長々と書き殴ってしまいましたが、これらの議論を日本において当てはめると、アイヌ民族への文化的配慮の必要性であったり、外国をルーツとする子どもへの理科指導における文化的配慮などが考えられます。
また、国外においても、例えば途上国における国際教育協力の一環として、現地のカリキュラム開発や指導を行う際には現地の人々がもともと持っている、伝統的な世界観や土着の知識の価値を認識しながら、よりより方向へと改善することが望まれます。


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