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茶道を紡いで(追悼:吉田宗看先生)
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まいとし正月は家人と茶室に伺い、皆で酒を楽しんでいたが、ことしは家族が増えたこともあり、自宅で騒がしくものんびりとした日々を過ごしていた。Noteをひらくと、投稿コンテスト「#かなえたい夢」が目にはいり、年始にふさわしいテーマのように映った。そして、さわかみ投信とのコラボであるから、短期的な夢よりも長期的なものがよいかとそこはかとなく考えていた次第である。
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三元日、私は令和の原三渓になる夢を草しはじめた。三渓とは文字通り横浜にある三渓園を築いた人物で、横山大観など数多くの芸術家を育てた男でもある。芸術家の生活を保障し、古典立脚した芸術に集注できる環境をつくったのである。また、関東大震災後も私財をなげうち、壊滅的であった横浜の復興に身を奉げたため、「横浜の恩人」とも呼ばれていた。
私は令和という激動の時代に、三渓のような人物となり、人々がホッとするような作品を創れる芸術家を育てていきたい云々といったことを書いていたのだ。むろん長期的な夢だ。
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私は生まれも育ちも横浜だが、三渓園と縁が深まったのは帰国後の四十代になってからのことである。このような品致がわかるのに、私の場合はそのくらいの年月を要したということであろう。父が急逝した四十一歳の秋、横浜市の協力のもと、障害のある方々を招いて、蓮華院で茶会をひらいて以来、節目々々で三渓園に足を運ぶこととなった。家人と付き合うようになったのは、あくる年の中秋の名月の晩であり、挙式はその次の年であっただろうか。いずれも三渓園での出来事であった。
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ところで、私と家人とのであいは吉田晋彩茶道教室になる。ふたりとも「読書のすすめ」という書店がきっかけで茶道をはじめたが、私たちを繋げてくれたのは、晋彩先生のご子息、吉田宗看先生であった。表千家の点前はたしか8歳か9歳ですべてできるようになっていた若先生(以下、宗看先生は「若」と表記)になる。そのあと、京都の寺で禅の修行も幾年か積まれていたかとおもうが、なんといっても茶室までハーレーダビッドソンでやってくる姿に、私は憧れていた。実は私は、
「おまえはいつも道理を外すから、道理のあるところに行け」
と言われて、茶道をはじめたクチである。あまりに自由奔放で、まあひととしてひどかった。そんな私が妙に若とウマがあい、茶道の稽古以外でもお付き合いしていただけるようになって二十年以上になる。
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上の三渓園のお茶会も若夫妻におんぶに抱っこであった。その他、農福連携という障害のある方々が農業をする事業の畑びらきのときも、前日に雪が混じる雨天のなか、炉をふたりで掘って、凍える思いをした。でも、当日はそのような苦労を微塵もださず、いつものエクボを見せて、お茶を点ててくださっていたとおもう。
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また、私がNPO法人読書普及協会の理事長を継いだ際は、若も理事になって支えてくださった。よくビール片手にたこ焼きを食べながら、これからの読書のありかたを話したものである。ここ数年は茶道の稽古そっちのけで、ふたりで奥の茶室にこっそり移り、将棋をさしては、大先生に呆れられていた。
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しかし、そんな師であり、友であり、兄であった若が去る一月五日の夕刻に心筋梗塞で急逝されてしまわれた。五十二歳。あまりにも若い。我が家には初詣の習慣はないが、その代わりに三渓園で散策したあくる日のことであった。あそこまで多くのお坊様が集まり、泣きながらお経をあげておいでになる葬儀を私は初めて見た。
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若の急逝は、三渓や世阿弥をおもわせる別れでもあった。一子相伝した子がさきに逝くなんて、あまりに無常で無情である。若が逝った二日後の朝、私は次のような日記をNoteに草した。傍らでは家人が「それまでの絆とか関係なく、本当に生というのは待ったなしなんだね」と涙していた。
前置きが長くなったけれども、その第一歩として、今の夢を書き残しておこうとおもう。若の馬鹿。令和の三渓の記事が無駄になってしまった。
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さて、夢のまえに令和の茶道のことを少し記しておかなければなるまい。
吉田晋彩茶道教室のすごさは表千家でありながら、三千家に分かれるまえの利休の茶が学べるというところにある。表千家ではこう、もともとのお茶はこうと稽古ができるわけである。利休のお茶を学べるなんて当たり前ではないかとおもわれるかもしれないが、そもそも三千家に分けた時点で、利休のお茶も分断されたのだ。つまり、この点前は表千家が利休の茶を継承し、あの点前は裏千家が継ぐといった編集が行われたわけである。江戸時代の話ではない。明治になってからの話になる。本来、真理があって、流派なしなはずの文化であったが、今やかなり流派、つまりは我が複雑に絡みあっているように見受けられる。
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ところで十年前、様々な縁が重なり、私はプノンペン郊外に短大を建て、その一室に茶室を設けた。寸法は大先生から教えを請い、三千家に分かれるまえのものである。名は吉田晋彩茶道教室の茶室からいただいて、カンボジアの茶室も「臨川」とした。もっとも地元のカンボジア人大工が私と同様にちゃらんぽらんであったから、程よい具合に寸法はズレていたとおもわれる。
実際、海外で茶室をつくるとなると、細部で頭をかかえることが少なくなかった。その度ごとに、若を酒に誘っては、茶室の位置や方角を相談したものである。ただ利休の茶を再現しようとすると、道理というのだろうか。こうならざる得ないという寸法や点前が自ずとでてくる。むろんごく一部であろうが、そのような境地に心を浸しつづけることによって、悟りがひらけるというのが、茶道の醍醐味だという。
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上のような話は現代日本人にまったく響かなくなってしまったけれども、カンボジア人には妙に響いた。東南アジアに限らず、茶道は海外で今かなり注目されている。観光的な要素も多分にあろうが、その一方で、真剣に茶を通して禅に触れたいと考えている方も多くおいでだ。ところが、後者の場合、いわば古典立脚した茶道を教えられる日本人が今ほんとうにおいでにならない。おそらく、さらに十年経てば、本来の茶を伝えられる方は皆無になってしまうであろう。むろん家元だって、かなり覚束ない。
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茶道が滅びゆくなかで、唯一の希望であったのが若であった。書道に楷書・行書・草書があるように、茶道にも真行草がある。そのなかの真中の真を継いだ若が、まさにこれからというときに逝ってしまったのだ。絶望的ではあるものの、願わくば、本来の茶道がどうにか残っていって欲しい。残された弟子にできることは、「継ぐ」のあいだにムを挿して「紡ぐ」ことではないだろうか。「紡ぎ」は毀れた茶碗の欠片をひとつひとつ拾っては、皆でていねいに合わせていくことをイメージしている。
皆で茶道を紡いでいく
これが今の私が「#かなえたい夢」である。否、夢というより願いに近いか。たしかな茶室も、それを活かす茶道も日本から消えたとき、私たちはいよいよ名だけの日本人へと堕すのかもしれない。
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ところで、利休の茶は南坊宗啓が『南坊録』を綴っていたから、今に紡がれている。たしかに『南坊録』は偽書という説があるものの、それは『南坊録』を繙いてこなかった者の言い分であろう。実際、南坊宗啓が動かなければ、茶道はとうに絶たれていた。南坊宗啓自身も、まだ道半ばであることは重々承知のうえで『南坊録』を書いたに違いない。
弟子が集い、吉田晋彩茶道教室のお茶を一冊に記録しておけば、幾十年後か幾百年後かわからないけれども、また天才がひょこり現れ、本来の茶道へと還るのではないか。それは若が口伝で継承していくべきものであったのだろうが、もうそれは叶わないから、機会があるのであれば、あえて紙の本に託しておきたい。
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元来、私は夢を持って生きるタイプの人間ではない。でも、かなわぬ夢ならできてしまった。まだまだ若夫妻と一緒に色々なところで茶を点て、酒を飲み、遊びたかった。またキャンプも一緒にしたかった。
茶道では大概「宗」の字ではじまる茶名を頂戴する。私の場合はずっと本名でお免状をいただいてきたが、一度、そろそろ名をもらったらどうだと若に云われたことがあった。私は「宗看ジュニア」がよいなと冗談で返した。自慢ではないが、私より上の代の弟子は吉田晋彩先生の弟子になろうが、私は吉田宗看先生の弟子第一号である。結局、「一番弟子が俺ですみません」というのも、若に云いそびれてしまった。
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