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プロポーズしたら、歯を見せてと言われた話 #いい歯のために
或る女性にプロポーズしたとき、思わぬ言葉が返ってきた。
「歯を見せてくれてから、返答してもよい?」
文字通り、「は?」である。求婚して、こんな返答をもらったのは、おそらく世界で私だけではないだろうか。歯科衛生士の彼女曰く、歯にも手相ならぬ歯相なるものがあるらしく、歯を見れば、そのひとの真の人格を見抜けるそうだ。
「クリーニングしてくれたときに、見たでしょうに」
「いや、クリーニングのときはやっぱり歯の汚れを探そうとするフィルターが入るじゃない。一生一緒になるひとの歯は真剣に見たいの」
自慢ではないが、私は歯にはすこし自信がある。ついこのあいだまで、虫歯も一本もなかった。資産価値ならぬ歯産価値も四十代にしては、高いほうではないか。むろん、これは私が投資ならぬ投歯してきた結果、つまりは、ひとよりは歯を磨いてきたし、歯医者でクリーニングをしてきたからだと言えなくもない。しかし、それ以上に、幼き頃に親が徹底して、私の歯をたいせつにしてくれたことが大きいとおもう。いい歯にするために、なんでも3歳まで砂糖をいっさい私の口に入れなかったそうなのだ。
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要は砂糖デビューは3歳を過ぎてからにするということである。幼い頃、私はおいしいものを食べると、自分の右手でほっぺたを嬉しそうにたたくクセがあったそうだ。しかし、初めて私が友人宅でチョコレートを口にしたとき、すなわち、砂糖デビューをしたときは、いつまでも両手でほっぺたをたたいていたという。よほどの衝撃であったのであろう。以来、私は甘いものが大好物で、こちらもひとより多く食べてきたけれども、今のところ虫歯の原因にはなっていない。
閑話休題。プロポーズから幾日か経って、私の歯を彼女に見せる日がきた。歯なんてその場で見ればよいじゃないとおもったが、どうも親知らずからきっちりと見ていきたいらしい。ただ今回は歯石チェックではなく、なんというか私の人格チェックを歯でしようというのだ。なんとなくバツが悪い。良好な関係を築いてきたつもりだが、彼女の目にかなわかったら、そのまま別れることになるのだろうか。いや、そうだよな。そのときは歯が原因で別れることになる。
しかも、これは歯を磨けばよいという問題でもなく、矯正したら大丈夫という話でもない。なんといっても、私の人格の話なのだ。今更、そのようなものは変えられまい。たとえ改心したとしても、歯に反映されるのはしばらく先のことになりそうだ。私は意を決して、口をおおきくひらき、彼女に歯を見せた。
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よく「細部には神が宿る」という言葉を耳にする。私はちいさな花のようなものをイメージしてきたのだけれども、もしかすると歯にも宿っているのかもしれない。そもそもハという音が、歯だけでなく、葉や刃など、なんとなく神秘的なものに使われているではないか。いったい彼女は歯のどこを見ていたのか。神まではいかなくとも、きっと霊的なものであったに違いにない。
お陰様で彼女の歯による人格チェックは無事に合格することができた。チェック直後の彼女のコメントはこうである。
「こんなに無邪気で、正直な歯のひとは初めて」
私の長年の友人たちからしてみれば、家内の人格診断が完全に間違っていることは火を見るよりもあきらかであるが、そこはどうか奥歯に衣を着せておいていただきたい。
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