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『Foundations of Language』Ray Jackendoff | Oxford

 たまには洋書も入れておこうか。日本ではマイナーだが、世界では著名な言語学者をとりあげることにした。無論、我が国でももっと注目されてもよいという意味を込めてだ。

 Jackendoff(ジャッケンドフ)に好感を抱けるのは、頭を解剖しても血が見えるだけという考えのもと、日常の言語活動を研究対象にしている点であろう。例えば、鰻(正確には蒲焼き)を食べる際の鰻は、an eelなのかeelなのかと日本人なら悩むかもしれない。これが水なら、そこまで悩みはしないであろう。*a water(「*」は一般的に使われないという印)とは云わないからだ。これは液体の境界線がぼやけているため、数えにくいというところからきている。a glass of water(グラス一杯の水)にしたならば、グラスという明確な境界線のなかに水があるから、冠詞のaをつけることができる。

 要は、冠詞のa(あるいはan)の有無は、境界のぼやけ具合を指しているのである。

 先ほどの鰻の蒲焼は、ふつう冠詞なしのeelで表現されるとおもうけれど、これは丸ごと一尾の鰻(an eel)より境界がぼやけているからと考えるとよい。冠詞のaを可算名詞につくものとして見る教科書的なやり方でもよいけれど、鰻の蒲焼なんて、普通に数えられるでしょう。これと似たような感覚で、a dogのaをとってしまえば、犬肉というか、車に轢かれた犬を連想してしまう。残酷なことをとおっしゃるかもしれないけれど、結構ふつうにこの類の英語のミスは見受けられる。リンゴも丸ごとひとつはもちろんan appleだが、人様に切ってさしあげたときのリンゴはappleである。

 Jackendoffはこの境界がくっきりしていることを有界的(bounded)、境界がぼやけているものを非有界的(unbounded)とした。つまり、an eelは有界的、eelは非有界的である。

 ここまではよろしいだろうか。物事のモノ、名詞の話になる。Jackendoffの魅力はここからになるから、もう少しお付き合い願いたい。彼は物事のコトにも、有界性(boundedness)を見たのだ。

 例えば、こんな文はどうであろう。

・John ran.(ジョンは走った)
・John ran to the station.(ジョンは駅まで走った)

 両方ともran(走った)という動詞が使われているが、前者は非有界的であり、後者は有界的である。後者は駅という着点があることで、先ほどのa glass of waterのグラスのように、明確な境界ができている。一方、John ran.の場合は、実際にはそんなことはないのだろうが、着点がないため、永遠と走っていた印象を受ける。時間の境界があいまいで、非有界的だ。

 あと、これは母語が日本語の方に対する問いになってしまうものの、

・ジョンは駅へ走った。
・ジョンは駅へ走っていった。

 はどちらがよりしっくりくるだろうか。ここに英語と日本語、より激しく云えば、西欧文化と日本文化に違いが如実に顕れてくる。英語の「ran」と日本語の「走った」は異なるということである。

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