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2024/10/20/野戦之月

劇団野戦之月の良いところは『観る事に多少なりとも覚悟が必要』だ、と言う事だと思う。

野戦之月の舞台を観ると、自己だったり世界と対峙しなければならない可能性がある。

それは至福の演劇部体験だ。
単なるお芝居ではない。

劇詩人:桜井大造氏は、90年代頃までは

『昭和天皇の戦争犯罪』
『日本と朝鮮半島との関係(主に戦中)』

と言った、対立関係を描いていたが、いつに頃からか、台本ではなく

『抒情詩』

になってきた。
対立関係ではなく、自己との対立、共生関係や依存関係、目には見えない弱者達の微かな叫び声。

90年代に初めて観た時は凄かった。
北九州市での公演だったのだが、私服警官と言うか公安が写真を撮影しまくったり、火や水を使い、3時間半(4時間だったかな)の舞台だったが、役者や客席のボルテージは凄いモノだった。

「あ、変わった」

と思ったのは2010年頃な気がする。

2011年に公演をした際に今は看板役者だが、実質、それがデビューだった

『森美音子』

が眩しく見えた。

彼女の舞台は、縄文杉のような太さと、雷のような激しさがある。

個人的に『つくしのりこ』と言う役者が大好きだったのだが、もう出演もしていないし、クレジットもないしなぁ。

2011年から3~4連発で傑作続きだった。

退屈な舞台も無いわけではない。
決して多くはないが「今回は退屈だった」と思った事もある。

でも、毎回、劇場のテントに入る時は覚悟するよな。

ワクワクとも違うし、ドキドキとも違う。

偉大なる芸術に接する(雪村の絵画や、ミロのヴィーナス、クラナッハの裸婦画など)緊張感と言うべきか。

桜井大造氏は反体制派であり、極左、新左翼と言うポジションである。

嘗ては、明らかに反体制派である、反天皇制でありアナーキストだった。

だが、いつからか純粋詩人になっていった。

アナーキストだから詩人になるのか。
詩人だからアナーキストになるのか。

アナーキストを突き詰めた結果なのか、詩人としての生き方がアナーキストなのか。

かくも詩人と言う存在は恐ろしいモノである。
詩人は公安に目を付けられるし、詩人は体調が悪くても、寒空の日でも水中や土の中から登場し、全てに火をつけて消え去る。

抒情詩をボソボソと呟き、目には見えない弱者達の声を代弁し、詩人は国家ともデジタル革命やAIとも対立する。

詩人とは己の為ではなく、誰かの為に、勝ち目のない戦いを行うモノなのかもしれない。

抒情詩を吐き出しながら、全てを破壊し、松明に火を灯し、古臭いライフル銃だけを持ち、1万人の軍隊に一人で殴り込みをかける。

そこに勝ち目はない。

勝利や敗北は何の意味を成さない。

アナーキストと言う詩人にとって勝利や敗北は下らないモノであり、生き様こそが、詩人の血なのかもしれない。

その詩人の血の一滴が戯曲になり、音楽になり、役者達も一滴の血を吐き出し、客席に伝わるのではないか。

詩人とは作品ではなく、生き様なのかもしれない。

シェークスピアも作品も素晴らしいけど、やっぱり生き様だよな。

あんな詩人への憧憬を私は隠す事が出来ない。


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