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書いて、考えて、哲学して、育てちゃおう。


保育と哲学


で、あなたたちは家事労働を女性や奴隷に任せて、話し合って「みんな」にとってのよりよい社会を実現できそうなのですか?

最近、「哲学」という分野に興味を持っていろいろな本を読んでいます。昔、「ソフィーの世界」というお話を読んだけれど、これが哲学なのか何なのか、よくわからずに読了した覚えがあります。

本屋さんで、これのマンガ版が売っていてちょっと気になりました。
電子書籍では、SNSの哲学という本を読みました。

この中に、哲学者の名前がいろいろ出てきて、ヘーゲルとか、ハイデガーとか出てきたのですが、名前を聞いたことあるなぁぐらいで、スルーしていました。この本の趣旨は「あなたは、何者ですか?」みたいな所とSNSとの距離感を話していましたが、私の思考は飛びました。
「そもそも、哲学ってなんだろう?」
そんな疑問が出てきて、ギリシャポリスの話を読み、ふと思いました。

哲学者って、お金持ちの道楽だったのか!?と。毎日必要な自分の生活の雑務(買い物、掃除、洗濯、料理、仕事)は、身の回りの女性や奴隷たちに任せて、自分たちは「みんな」のために、議論を花咲かせる世界……。
なんだか、男性ばかりのお偉いさんたちの会議を思い浮かべてしまいました。その中の「みんな」に女性、子どもは含まれていないのでは?と。

こんなことを感じるのは、私が「女性」で、「子ども」と多くかかわってきたからかもしれません。もちろん現代社会では、その問題解決のために、いろいろな起業家さんや経営者の方が尽力してくれているからこそ、サービスを生まれ、生活しやすくなっているのは知っています。ギリシャポリスなんて、昔の話じゃんって思うでしょう。

ただ、いろいろな本を読んでいると、有名な哲学者の名前は変わりません。ずっと昔の著名人の本の内容の引用、もしくはそこに準じた考え方の系譜で学問が続いているようです。

私の仕事では、現場が1番大事でした。目の前にいる、今日の子どもの体調や様子、背景を読み取って、楽しい日々を作っていくのが仕事でした。だからこそ、思うのかもしれません。

「それ、本当にみんなのためになってるの?」って。

利他の区別

人間は、集団生活をする動物です。だからこそ、集団のルールがうまれ、その中で組織を維持する仕組みがあります。そこのシステムが、恐怖支配だと不満が溜まりいつか爆発して崩壊します。それは、今まで歴史が教えてくれます。

ただ、哲学でせっかく考えるなら、より長く続く方法を思いついてほしいのです。いや、思いつく人はいたけれど、実行が難しい社会になっています。権利主義。銀行という仕組み。資本主義。そもそも、理解すらしていない人たちを騙して巻き取る仕組み。複利でどんどん増えていくお金持ちの資産。

「みんな」の社会を維持するためには、「個人」の犠牲は必要。

最近、身の回りに起こったいろいろな出来事が頭をよぎりました。

友だちとの会話の中で、「仕事の後輩が、カラコン入れて、髪は明るい茶色。保育士としての印象が悪くなるから、直してほしいって言ったらその子、泣いたんだよね。」

マンションの管理組合の会議で、「新しく光ファイバーを導入するにあたって、マンション用の工事費用がかかります。でも、この業者さんなら無料でやってくれます。みなさんは何も変わりありません。」「うちは、その業者で契約してないし、そもそも早い回線は必要ないです。うちの玄関の所にその配線が来るのはちょっと……。」「えぇ、無料ならやってもらおうよ。」

町内のお祭りで「寄付金を募っています。よろしくお願いします。」「そもそもさ、うちはもう年寄りで子どももいないから、祭りとか行かないんだよね……。まぁ、払うけどさ。」

その組織がやるべきことへの責任と、それぞれ個々の思いがぶつかることなんて、いくらでもあります。
労力、お金、品物、見映え、参加すること、などそれぞれが何を差し出せるのかは、人によって価値が異なるものです。
それなのに、一律に急に差し出せと求められると、人は嫌がります。

これは、子どもたちにも言えること。

「早く!仕事に遅れちゃうから、保育園行かないと!急いで!」
こんな朝を幾度となく迎える家庭をは多いけれど、子どもたちにとっては(んなこと、急に言われても……こっちにも保育園に行きたくなるタイミングって言うのがあるんだよ……)ってモヤっていて、うまく言葉にできないから、泣くか、固まって動かないかと態度で表現しているのです。

給食の時間、利他の区別がついていない2~3歳ぐらいの子どもは、隣の子のお皿にあるおかずを食べてしまうこともあります。おもちゃだって、おんなじです。これ!ぼくの!と。これが、争いのタネ。

「みんな」と「わたし・ぼく」が繋がっていて、それぞれタイミングがあることを知り、新しい概念を知らせていきます。
「これは、○○くんのもの。」と人と自分の境界線を知らせ、
「これは、次は△△くんの番ね。」と順番を知らせていくのです。
この概念に納得できないと、争いになります。
強引に奪ったりしたらなおさら。

思いやりを知らせるには、根気よく話を聞いたり、思いを代弁したり、子どもたちの話の交通整理をする必要があります。保育士は忍耐を求められます。子育ては、見守ることを学ぶのです。これ、結構大変です(笑)特に、スピード感の早い現代に慣れていると、めっちゃ待つ感覚があると思います(笑)感情を出させて、言葉に変えて、冷静になるまで傍にいてあげるのです。でもね、やる価値はあります。この「思いやり」は子どもに託す未来へのギフト。愛だから。(そうはいっても、現場も忙しいのが現状です)

待てない社会にこそ子育てを

SNSもそうですが、毎日毎日、たくさんの情報がスマホから流れてきます。私も毎日noteにくだらない話を垂れ流しているぐらい(すみません)だから、世界中が繋がるインターネットで数えるなら相当なものでしょう。そして、それらは昔の写真のようには劣化しません。時間が止まって、そこに存在しています。

今、私が昔のnoteを見ると、こっぱずかしくて、手を加えたくなります。それは、今の私があの時より成長しているから。でも、読者にとっては、その過去記事が、書き手のことを知るすべてになります。これもまた出会うタイミングです。それもまたいいのでしょう。人は学び続け、成長していくから、その時々にあった思考を取り入れやすくなっている証拠でもあります。

ただ、毎日流れてくる情報だけに、一喜一憂しているだけだと見逃してしまう、小さな成長があります。人が赤ちゃんから一気に年を取って老人にはなれないように、成長のプロセスがあるのです。道は違うけれども。

その過程を一緒に見るのが、プロセスエコノミーとか言われていますけど、そんなの保育園では毎日やっていましたよ!楽しすぎる日々でした。我が子は今、小学生ですが、それでも毎日うるさいほど楽しいです。

子どもを持ちたくない、持てない人がいるのはわかっています。それでも、このスピード感の早い社会では、人の成長を見守っていく子育てって、いい学びができる人生イベントだと思います。もちろん、ペットたちの成長を見守ることも同じでしょう。

私は哲学者たちの話し合いには、参加できませんでしたが、何かいろいろ読んでいて思ったのが、楽しくみんなで子育てしてたら大丈夫だよ!ってこと。推し活でもいいけれど、育ちゆく何かを愛でる行為が広がれば、優しい世界ができるよねって、単純に思ってしまいました。(楽観的!)

不安とか、恐怖とかに支配されないで、楽しいことに目を向けて、やりたいことをやっちゃえばいいんだよね。もし、怖い鬼がやってきたら、鬼ごっこのように逃げちゃえば、最後に笑っていられるよ。子どもたちのように。


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