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本日、名古屋は卒業式。退屈な「式典」の当たり前を疑ってみる。


この記事を読む人は大人でしょうか。
だとしたら、今まで何度も卒業式があったのでは?

私も、小・中・高・大と卒業式に参加してきました。
自分のでは泣けたことは1度もありません。
役目を全うすることしか頭になかったです。
(ここで、礼をして、あそこであれを受け取って~と)
子どもの頃の私にとって、退屈でしかなかったあの行事。
卒業式。

親となった今は
子どもの成長の節目を祝える喜び
そこにあるのかなっと思います。

私が子どもだった頃は、
極力親には式に来てほしくありませんでした。
父が病気だったこともあるので。

でも、我が子たちを見ていると行事は
「見に来てほしい!」って感じなのが
おもしろいです。私とはキャラが違います。
家庭環境も安定しているからかも。

ただ、堅苦しい「卒業式」みたいなのは、
よくあくびが出るようです(笑)
つまらないのでしょうね。
分かります。
あの形式ばった式典っていうの
子どもたちにはなじみないですもの。

はたして「卒業式」って誰のためにあるのでしょう。
式典とは何のためにあるのでしょう?
そんなことを思ってしまいました。

式典の語彙を調べてみます。

しき‐てん【式典】 読み方:しきてん
祝賀・記念などを一定の形式に従って行う行事。式。儀式。

weblio国語辞典より

あぁ、一定の形式が退屈さをうみだしていたのかもしれません。
伝統行事は、誰が担当になっても回るようにあえて形式がある。
だから、迷わなくて済む。
滞りなく進められるメリットもある。
運営側のためにあるのが、式典なのかもしれません。
文化継続システムが。

卒園式から思い出すあの出来事

毎年、当たり前のように行われる卒業式。
これに疑問を持ったのは、保育士の時でした。

子どもたちの集中力はそこまで長くないのです。
あの子たちにできる範囲で
形式的な流れを知らせるため
前年度から年中さんも参加させて見て真似させます。

記憶力のよい女の子たちはすぐに覚えて、
クラスで再現遊びをしていました。
人は、見て学ぶ。
脈絡と受け継がれていく、見様見真似。

言葉で理解なんかよりも、
身体に覚えさせた方がよっぽど早いし確実なのです。

卒業式のプランは基本的に担任が決めます。
私は初めて年長担任になった時に戸惑いました。
例年通りっていうものが、当たり前じゃない世界があるんだ!

子どもの年齢が幼ければ幼いほど
形式に合わせるのは、難しいものです。
大人の理想通りに動かないのが子どもたち。
それでも、何となく見様見真似でやるのが
かわいくて、失敗すらも愛おしい。

そんな子どもたちですから、年長といえども
クラスによって「できる」「できない」が異なります。
去年はあのクラスだから可能だったけど、
今年の子どもたちだとあれは難しいなんてことがよくありました。
その度に、担任は頭をひねるのです。
形式を置いた上で、できる限りのことを。

形式に安心するのは、子どもよりも大人です。
大人の方が、失敗するのに敏感です。
なるべく恥をかきたくないから。
こちらも考慮しながら、
保護者参加してもらう予定があるなら
事前に役目をお伝えするようにします。
保育士だって大人なので、滞りなく進めたい。

こうなってくると、
卒園式は子どものためといいつつ
大人も巻き込んだ共同創造式典です。
そこには、本来の喜びよりも
緊張とプライドが入り混じる式典になります。

私の保育園の卒園式は、第2部もありました。
第2部は式典というより、和みの会です。

第2部では式典の緊張からやっとほっとして
今までの生活の写真や動画を見て懐かしんだり
子どもたちからのサプライズプレゼントと称した
保護者に感謝を伝えるように仕込まれた演出があります。
(保育士が保護者を泣かせにかかる感動の演出)
逆に、保護者から担任にサプライズをされることも。
(保護者が保育士を泣かせにかかる感動の演出)

そして、
「そつえん、おめでとう!」という声がとびかい
みんな、笑顔で帰っていくのです。
桜のつぼみが膨らんだ木々の横を手を繋いで歩きながら。

もう、映画のワンシーンのようです。
それが、毎年繰り返されています。

子どもの頃は、退屈だったあの行事は
親になると感動的にリメイクされるという
人生の壮大な伏線だったのです。
これは、保護者にとってビックイベントです(笑)

まだ子どもがいない若い保育士だった私は
そこに気づいていませんでした。
ある事が起こらなかったら。

事件発生(脚色あり)

隣のクラスのA先生は、
年長の子どもをもつ母親でもありました。
A先生とB先生で年少の担任をしていました。
ある時、保護者との何気ない会話でA先生が
「うちの子も今年卒園なんですよ♪
まぁ、卒園式の日程が被ったので参加はパパなんですけどね~」
みたいに保護者と会話をしていたそうです。
これ自体は、よくあること。

でも問題は、
それを聞いてしまったお母さんの心配です。
(あら、大変だわ。保育士さんだからって
我が子の卒園式という大事なイベントに
職務で参加できないなんて理不尽よ!
どうにかしなきゃ!)
と思ったかどうかわかりませんが……

正義感の強いお母さんたちの団結力が
みごと功を奏し園全体を巻き込んだ
署名活動にまで発展しました。

「A先生を自分のお子さんの卒園式に参加させてくれ!
私たち保護者はA先生がいない卒園式でも大丈夫!」
みたいな内容をカチッとした書面にして出してくれました。

困ったのは、園長先生。
こんなこと、前代未聞です!

確かに、A先生は年少担任なので
卒園式に出席しなくても支障はありません。
しかし、ここは公立保育園という
しがらみのありまくる場所。
こんな前例を新米園長がつくってしまったら……
園長先生の葛藤がうまれます。

A先生自身は、
我が子の卒園式に参加できる希望ができたけれど、
予想を反した現実に戸惑い申し訳ない気持ちに……。
保育士という職業になった以上、
同日に開催される行事に参加できないのは
みんな覚悟の上ですから。
それでも、希望は捨てたくありません。
ただ変なことを保護者に話すな!と園長先生から
怒られて凹んでしまいました。

公務員とは、全体の奉仕者です。
社会全体の利益になるような規範的な行動が求められます。
たとえ個人的な感情は抑えつけられたとしても。

というわけで、署名は受理されませんでした。
不満を残した保護者と、いたたまれないA先生。
そして、職務を全うした園長先生。
誰も、悪くありませんでした。
みんな、己の正義感を貫いただけ。

そんな中、やりにくいことこの上ない
卒園式を担当している年長のC先生。
個性的な子が集まったこの年は
参加する子どもたちの服装も多様でした。
普段着のまま、礼服、チマチョゴリ、浴衣、袴。
そして全員マスク着用。カオスです。

異様な雰囲気の中、
それでも笑顔で仕事をする同僚たち。
「そつえん、おめでとう!」
拍手の連続と笑顔のはりついた顔。
卒園式は滞りなく進みます。

何も知らず笑顔で手を振って
卒園していく子どもたち。
礼服に身をつつんだ先生たちの背中が見送ります。

うわぁ~。
今度はやるせない気持ちになるドラマを見せられた気分です。
「卒園式」っていったい誰のためにあるのでしょうね。
式典とは何のためにあるのでしょう?
っていうことをしみじみ考えさせられました。

誰のためにあるのか?


卒園式は、子どものためじゃなく親のためにあるのかもしれない。
実は、我が子の成長の喜びを親が感じるために存在するのかもしれない
と思ってしましました。

もちろん、親子のためという意見もあるでしょう。
それでも、どちらかというと親向けに創られています。
だって、服にお金を払うのも参加を決定するのも親だから。
親が気分良くいられれば、子どもたちも安定するから。

でも、本当に子どもたちのことだけを願ったなら
式典の在り方は変わっていくのかもしれません。

実は、式典の服装1つにしても子ども目線ではないのです。
礼服は窮屈で着られない子もいます。
感覚過敏が強くて適応できません。
むずむずして、その場にいることも困難です。

実は、スカートをはきたかった子もいます。
女の子のかわいい服がうらやましい……。
いつも、ままごとをしていたあの男の子。

実は、礼服を知らない子もいます。
親の勘違いからTPOに合わない服を
着させられた子どもたちは
自分は悪くないのに恥ずかしい経験します。

日本以外の文化を誇りに思う子もいます。
家庭が一番ですから、親のもっている愛国心を
知らずに受け継いでいる子もいます。

好きなキャラクターの服を着たい子もいます。
礼服なんかよりも、マインクラフトのついている
あの服の方がかっこいい!

そもそも、服なんて何でもいい子もいます。
トイレがめんどくさいし、楽ちんがいい。
1回きりで高いのにって文句を親に言われていたりします。

子どもたちの価値観はいろいろです。

子ども目線で考えてみると、
式典の新しいあり方が産まれてくるのかもしれません。

それにはきっと大人の方が戸惑う気がします。
形式に安心するのは、子どもよりも大人なので。
形式があった方が、楽ちんです。
とりあえず、これを着ておけば失敗しないから。
自由だと、失敗の責任も全部引き受けなければならないから。

失敗よりも、自己表現。
どんどん挑戦していけというわりに
失敗を許さない雰囲気があります。
子どもたちは、もっと自由だけれど
それをせき止めているのは大人かもしれません。

感動の演出なんてしなくとも、
今、ここにいる子どもたちで創り上げていく式典の方が
何倍も楽しいし、創造的だし、面白い未来が創れるのになぁ。
って、これを公で言うと怒られます(笑)
伝統を壊すなって。
礼儀正しい日本の文化は、こういう式典から創られているって。

式典。
行事。
式。
儀礼。

人生の節目に現れるこの時間。
それって一体誰のためにあるのかな?
当たり前を疑ってみる。

これって大事だけど、私も大人。
形式に安心するのは、子どもよりも大人。
きっと私は息子の為と称して
普通に形式ばった洋服を来年買っている気がします。
公立の小学校の規則に準じて。

本日、名古屋では卒業式。
脈絡と受け継がれていく、見様見真似。
これに参加させられている5年生の息子。
さぁ来年は、我が子の番だ。

「卒園、おめでとう。」
そう言って、写真に残せるその日まで
私は、当たり前を疑い続けられるだろうか。

正直、自信はないけれど、
どんどん変化していく時代の流れで
もしかしたら孫世代の「卒業式」は
おもしろいものに発展しているかもしれません。

子どもたちが笑顔でいられるのならそれでいい。

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