なぜ子どもの権利なのか? (長瀬正子)
クラウドファンディング、30%達成しました。
たまたま更新の担当が私(長瀬)なんですけど、とても嬉しくありがたいです。
そして、活動報告への応答ありがとうございます。
「読んでるよー」って言っていただけるだけで、テンションがあがります。
さて、今日は、なぜ長瀬が子どもの権利にこだわって活動しているのかのお話。
「『子どもの頃のわたし』ときくとどんな自分を思い出しますか?」ときかれたら、
みなさんは、どんな子どもが浮かびますか?
私は、二人の「子どもの頃のわたし」が出てきます。
元気いっぱいに外で生き生きと遊び、生命力にあふれた小学生の頃のわたし。
もう一人は、無表情で制服を着たエネルギーをなくした中学生の頃のわたしです。
生き生きと元気にしていた私が、なぜ無表情になったのか。
そのことと、子どもの権利を子どもに伝えたいと思って行動していることはつながっています。
私は、愛知県の公立中学校に通っていました。
そこでの日々は、すべて「管理される」ものでした。
靴下の長さと色、鉛筆の形、筆箱の色、髪の長さ(肩より下にのばすことはできない)、前髪の長さ、学ぶべき内容、中学生らしさ…。
何一つ決められないということ、学校の「フツウ」に私は心底うんざりし、耐えられない気持ちを抱えていました。両親は共働きで、私の登校より早く出勤するので、祖母に頼んで時折自主的な不登校をすることでなんとか生き延びていました。
当時、学校では「学校に適応できない子どもは、社会でもやっていけない」というようなことが繰り返し言われていました。私は、学校の「フツウ」が耐えられなかったので、ずっと「ちゃんとした」大人になれないんじゃないか、と思っていました。そして、学校に適応できない自分を責め続けていました。
そのころ、実家は小学生から読める子ども新聞を購読していました。
その記事では、1989年に子どもの権利条約は採択されたが、日本では批准されていないということを伝えていました。日本は、1994年に権利条約を批准しています。批准されないでいた5年間と、私が中学生だった時期は重なっています。
その記事を読んだ時、「今の私がこんなに苦しいのは私のせいだけじゃないかもしれない」と思ったのです。「日本社会のありようが、関係あるのかもしれない」と。
そして、日本の国は批准していないけれども、子どもを人として尊重する国際条約があるということに勇気づけられました。
ふりかえると、それは、心に光が灯るような経験でした。
(研究室に飾っているmomoさんの絵)
この記憶を思い出したのは、20代半ばのころです。
大学3年生の時に、これまた新聞で「地球規模で考えよう、子どもの権利」という市民講座を見つけました。そこから私は、大学の外へと飛び出します。
子どもや女性への暴力に関心をもっていたので、いろいろな参加型の学びの場に参加しました。
繰り返し子どもの頃を思い出すワークをするなかで、子どもの権利条約にまつわる出来事も思い出しました。中学生の頃の辛かった気もちを泣きながら話し、たくさん話を聴いてもらいました。話すなかで、自分があたためられた経験も思い出したのです。
社会を変えるために具体的に行動をする大人たちにも出会いました。子どもや若い人たちに「仕方ないよ」とか「それが社会だから」と言わず、あきらめずに必要なアクションを起こしていく。あの頃出会った大人のように私はなれているかな?って時々振り返ります。
現在、私が多くの子どもや大人に子どもの権利を伝えるということを仕事にしているのは、この時の経験が根っこにあります。子どもの権利条約と出会ったことが、私にとっての光になったように、子どもにとっての光になれば、と思うのです。
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