【インタビュー(中編)】海外ルーツの子ども支える 多文化コーディネーター アマドゥ理和子さん 〜多文化コーディネーターになるまで
連載前編「多文化コーディネーターとは?」に続き、多文化コーディネーターとしてYSCグローバル・スクールで働くアマドゥさんが、現在のお仕事に就くまでの経緯を伺いました。
――アマドゥさんが多文化コーディネーターになるまでの経緯について教えてください。
子どもの頃、東京で在日外国人の支援をしていた団体のドキュメンタリー番組を見て、日本で働く外国人の苦労を知りました。それが印象に残り、いつか、何かお役に立てることができたら…という淡い気持ちを抱きました。
その後、JICA(国際協力機構)の海外青年協力隊に応募します。でも、合格した矢先に体調を崩し、夢破れてしまいました。
20代は治療に専念したのですが、入院先の病院で、患者さんへの対応などで問題を目にして、院長にクレームの手紙を書いたんです。そのことがきっかけで院長に気に入られ、病院で院長の秘書として働くことになりました。
――ドラマみたいな急展開ですね。病院ではどんなことをされたのですか?
皮膚科の患者さんには退院後の生活上のアドバイスをしたり、末期がんの患者さんたちとは病院の屋上で園芸作業をしたり、よく海へ散歩に行ったりもしました。院内で患者さんが待たずに診察を受けられるようなシステムを作ったこともあります。本当に多種多様な仕事をしていました。
難病の方が来院するので、ケアに必要な傾聴の勉強もしました。海外から来る患者さんも多く、さまざまな信仰と宗教を持つ方々にも出会ったのです。
そのような仕事をする中で、困っている人に寄り添うことの大切さに気づきました。
――では、病院での経験が、YSCで活動を開始するきっかけということでしょうか?
実はその気持ちはいったん置いて(笑)、バックパッカーとしてインドやタイへの旅に出たんです。
現地の人々や、さまざまな国からの旅行者との交流から多くを学びました。中でも、インドの社会階層システムであるカースト制度や、その序列の外に置かれた人々について知ったことは大きかったです。
健康に産まれてきたのに、物乞いのために自らの体に硫酸をかけて怪我を負い、傷が治るとまた硫酸をかけ…。その繰り返しでしか生きていくことができない人がいるという現実に、人間や世界の在り方を深く考えさせられました。
旅先や留学先で、現地の人々だけでなく、色々な国から移民としてやってきた人々と交流する機会も多かったので、仕事をしに日本に来た外国人を一概に「かわいそうな人」「困っている人」として扱うことには違和感があります。
自国を出て、言葉も文化も違う環境で働くって、とてもエネルギーのいることですよね。その意味で、移民とは「チャレンジングな人たち」だと捉えています。
――世界への旅から、どのようにして多文化コーディネーターになったのでしょうか。
日本に帰国後は出産やパートナーとの死別や、私自身も体を壊したりと大変な時期があり、生活保護を含めてさまざまな支援を受けました。その時は大変でしたが、「支援される側」となったのは今思えば得難い体験でした。「支援する側」だけにいたらきっと見えなかった視点や感覚を、リアルに持つことができましたから。
特に、当時5歳だった子どもを連れてイタリアに短期滞在を繰り返していた時期があり、自分の国ではない、言葉の通じない場所で子どもを育てるということについて考えるきっかけになりました。その経験からも日本で暮らす外国人のサポートに興味を持ち、YSCグローバル・スクールでの仕事につながっていきました。
今回はここまで! 後編では、「アマドゥさんがこれから取り組みたいこと」、「私たちにできること」をお届けします。
▼続きは【後編】へ
構成・執筆:住友商事プロボノチーム
編集:青少年自立援助センター YSCグローバル・スクール
写真:森佑一
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