倶会一処
お寺のお仕事として、百箇日という仏事を勤めることがあります。
百箇日・・・この仏事の起源は、諸説あります。
また、この百箇日、宗派関係なく勤めることが多いです。
人がお亡くなりになると、まず、枕経を勤めに亡くなられた方のお家へと行かせせていただきます。
そして、翌日の夜お通夜、翌々日にお葬式、初七日法要を勤め、その後、七日毎に七日参り(二七日、三七日・・・)をお家へ行き、仏壇の前で勤めます。
そして、忌明け(満中陰)を迎え、亡くなられて方百日後に百箇日を迎えます。
百箇日は、法事ほど重い儀式ではないのですが、残された遺族の方にとっては、重要な意味があると私は、思っています。
故人が亡くなれてから百日。大切な人を失った悲しみは、深いけれど、泣いて暮らす日々は、ここで一度区切りとしましょう。
百箇日の仏事には、そんな意味合いが含まれています。
人の死というのは、年齢に関係なく、周りの方に衝撃を与えます。
私は、仕事柄、故人の死を悼むご遺族の方々の姿に触れます。
肩を震わせ、声にならない悲しみをその体いっぱいに溢れさせている方。
その姿を私は、火葬場の脇でそっと眺めています。
僧侶である私が、その場で出来ることと言えば、黒い衣を着、数珠をかけ、旅立たれる故人に拝むことのみです。
その後、七日毎にご遺族の元へ行き、お経を上げ、雑談をし、帰ってくるだけです。
そして迎えた百箇日では、少しだけ、心の区切りをつけませんか?とお話をさせていただきます。
故人の死を乗り越えるとか、悲しみに蓋をするとか、そういう事は、誰かに言われてすることでもなく、しなければならないことでもありません。
ただ、宗教的儀式を行うという意味に、心のラベリングをするという事が含まれています。
仏さまに向かって、手を合わせる。
故人を弔う。という事も一つですが、それと同時に、故人が浄土へ旅立たれた、もしくは、自分の世界ではない場所へと旅立っていかれた。
それを、自分のなかで咀嚼していくことも、まだ残された人生を生きていく遺族にとっては、必要なことだと思います。
故人の死を乗り越えるということでもなく、また忘れるということでもなく、故人との思い出を心にしまいながら、共にこれからの人生を生きていく。
そのような意識をこの百箇日で一つ、してみては、いかがでしょか。
私は、そう、提案させてもらっています。
でも、悲しいものは、悲しいですよね。
時間が解決するって言ったって、まだ百日なんて短すぎますよね。
心の整理なんてそう簡単につくものじゃないですよね。
もう一つご紹介させていただくお経に出てくる教えに『倶会一処』という言葉があります。
墓石などでよく刻まれているかと思います。
『倶会一処』は、阿弥陀経(お釈迦さまの教えをまとめた経本)に出てくる言葉で、「俱(とも)に一つの処で会う」という意味です。
つまり、仏様の浄土でまた会わせていただくということです。
亡くなったらどこに向かうのか、死後の世界はどこに広がっているのか。
生きている限り、この疑問は続き、それぞれの信仰する宗教がその問いに寄り添う答えを導いています。
浄土真宗では、「阿弥陀仏のはたらきによって、亡くなったら浄土へと還り、またともに会える機が巡ってくるでしょう。」
そうやさしく説いています。
「いつか会える。」
亡くなった故人との縁を断ち切るのではなく、また会えるその日まで。
”今”を生きる、そして”これから”を生きていく遺族の方々の心へ少し風を通す。
そんな意味合いがある百箇日の仏事だと私は思います。
というわけで、明日もまたお仕事で。
ちなみに三兄弟は、元気です。
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