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【よりらじ】仏教とウェルビーイングについて#1

連載はじめます!

この度、由宇霧さん主催のウェルビーイングプロジェクト「Yoriyoi(よりよい)」にお声がけいただき、「仏教とウェルビーイング」をテーマに連載を始めることになりました。

stand.fmとYoutubeでは音声で、仏教やウェルビーイングについて楽しく学び、よりよく生きるためのヒントが見つかるラジオコンテンツを目指します。

こちらのnoteでは、補足情報を追加しつつ、ラジオで話した内容をまとめていきます。


ウェルビーイングってなんだ?

ウェルビーイングとは、「Well(良い)」と「Being(状態)」からなる言葉で、昨今はSDGsの文脈でもよく語られている。

健康、お金、心の状態など、さまざまな視点から良い状態で生きていくことを目的としている。

主観的ウェルビーイング客観的ウェルビーイングという、大きく二つ分けられることができ、主観的ウェルビーイングは”自分の人生の満足度”や”自分にとっての幸せ”などが挙げられ、客観的なウェルビーイングは、”平均寿命”や"失業率"など数字で表現できるものが多いことが特徴である。

仏教とウェルビーイングの関わりは?

仏教の役割の1つとして、「人はどうより良く生きるか」を人に示すことが挙げられる。

なので、「仏教が提示するウェルビーイング」というのがあると言えるため、仏教とウェルビーイングの関係はかなり深いだろう。

仏教の最終目標であり、仏教が目指していく幸せは「成仏」つまり「仏に成る」ということで、それは「悟り」と「救い」という二つの要素で語ることができる。

悟り」とは、何にも動じないような精神的に安定した境地であり、
救い」は、誰かを救い幸せにできるという仏の力を指す。

つまり、仏になることを目指すということは、この「悟り」の精神状態になり、「救い」の力を持つことを目指すということである。そして、この成仏を目指すために、お坊さんや修行者は修行をするというのが仏教である。

仏教の主観的・客観的ウェルビーイングとまで言えるかわからないが、「悟り」は自己の精神状態であり、「救い」は他者の存在が関わってくるため、自分に対する視点と他人への視点の両方が垣間見れる。

修行者と参拝者(信者)の関係

では、お坊さんに対して、参拝者や信者、檀家といった、お寺に関わる一般の方(以下、まとめて「信者」と呼ぶ)はどのような立ち位置なのか?

これは、宗派の考え方によって、異なる。

浄土宗(こうどうの宗派)などの浄土教から見た仏教の分類に、浄土門聖道門という分け方がある。

浄土門とは、「念仏を唱える」という実践が容易い修行をする教えであり、多くの人が念仏によって救われ、成仏できる。

聖道門とは、修行を実践することが難しく、お坊さんのように修行を専門的に行える人でないと、成仏することは難しい。

(これは決して聖道門が劣っているわけではない。あくまで教えの在り方の違いとして理解してほしい。浄土宗を開いた法然上人も、かつては聖道門のお坊さんであった。)

つまり、浄土門の信者は、お坊さんでなくても修行をするが、聖道門の信者は、修行をすることはない。お坊さんのような修行者を支援する立場となる。(※すこし正確性に欠けるので、脚注を参照)

特に古代インドで最初に生まれた初期仏教の修行者は、仕事や生産活動を一切せず、修行にまい進しているため、彼らが食べていくためにはそれを支援するスポンサーが要る。(これが布施である。)

信者は尊い修行をしている人に支援することで、成仏できるわけではないが、善い行いではあるため、果報と呼ばれるご利益(商売繁盛や来世の良い環境など)を得られる。このような布施果報の仕組みによって、信者と修行者のWIN-WINな関係が作られている。


※聖道門と浄土門という考え方は、生前に悟りを目指す教えと死後に極楽で悟りを目指すという分け方であり、修行を実践することの難しさに関わる考え方である。なので、信者の立場はあまり関係ない。お念仏ほどの容易さはないかもしれないが、聖道門に分類される宗派でも、信者の立場で修行を実践する場合もあるようだ。上記した信者の立場は、聖道門ではなく初期仏教における信者の立場として理解しておいてほしい。また浄土宗は鎌倉仏教と呼ばれる現代に多く残る宗派が生まれていく最初期のものであるため、聖道門と浄土門という考え方も、浄土宗以後の仏教をあまり想定していない可能性がある。浄土宗以前にも以後にも、様々な形の仏教があり、それぞれに修行者と信者のあり方があるだろう。


対して、誰でも念仏という修行ができる浄土門の信者は、お坊さんじゃなくても修行者であり、お坊さんはその指南役の立ち位置になる。

なので、浄土宗は”みんなで”念仏をするということを大事にしており、ネットで活動するお坊さんの周りでは、「南無トゥギャザー」という言葉が流行ったこともある。フザけているように聞こえるかもしれないが、お坊さんたちはけっこう真面目だ。

このような、多くの人を救いとり、共に成仏へ向かっていける教えを、「大乗仏教」と呼んでいる。

「大乗」は、「大きな乗り物」を指し、多くの人を一緒に乗せて成仏へ向かっていける教えや修行を乗り物に喩えている。

イナバ物置のように、100人乗っても大丈夫なのが、"大丈夫ッ教"。
いや、大乗仏教なのだ。

お寺って、けっこう身近

由宇霧さんは、ウェルビーイング的な取り組みとして、自分の時間を作るために散歩をよくするそうで、よくお寺にお参りするという。

その中で、自分の身の回りに多くのお寺があることに気付いたという。

実際に日本にあるお寺は、かなり多く、「THE 南無ズ」という坊主バンドの楽曲「てら・テラ・寺」では

コンビニより多い 学校より少ない
教会より多い 神社より少ない

THE 南無ズ「てら・テラ・寺」

と歌われている。

もちろん地域によりバラツキはあるが、コンビニより多いと思うと、かなり身近に思えるだろう。

「日本人は無宗教である」とよく言われるが、お寺や神社があまりにも身近にあり、本来は宗教的行事であるお祭りが多くの人に楽しまれている状況を考えると、あながち日本人は無宗教ではないのかもしれない。

浄土宗の自分との向き合い方

仏教において、自分を見つめなおすという行為から真っ先に思いつくのは、瞑想や坐禅といった修行かもしれない。

ただ前述したように浄土宗は、お念仏を一番の修行としているので、瞑想や坐禅といったものはしない。しかし、浄土宗は仏の前でお念仏をすることで自分と向き合っていると言えるだろう。

お念仏をするのは、仏の前だけではない。お墓やお仏壇の前でもお念仏をする。

そのように、なにかの前に立って手をあわせ、念仏をしているとき
その目の前の仏、ご先祖さま、先立たれた大切な人に自分を見てもらうことになる。

つまり、自分で自分を見つめなおすというよりは、仏や先祖、故人などの視点を借りることで、結果的に自分を見つめなおしていると言えるだろう。

もっと言えば、仏やお墓などを、”自分を映す鏡”のようにしているのだ。

この鏡は、別に神仏でなくてもよいかもしれない。生きている人と話すときでも、その人との比較の中に自分を見つめなおすことはできるからだ。

ただ、それがより良い鏡になってくれる対象かどうかは、対象にどのくらい自分の心をさらけ出せるのか、対象と自分がどのくらい波長が合うのか、その対象がどれくらい尊敬できて素晴らしい存在であるかなどにも寄るだろう。

鏡は美しく磨かれているほど、自分がはっきりと映る
ということなのかもしれない。

お寺や仏教に関する質問

ここで、由宇霧さんからのいただいたお寺に関する質問をQ&A形式で紹介していこう。

Q.お寺の掲示板の標語は誰が書いているの?

だいたいは、そのお寺のご住職が書かれているが、宗の本部からポスターが送られてきて、それをそのまま掲示している場合もある。

由宇霧さんにとって、ネットでは出会えない言葉に出会えて、すごく気に入っているという。

ラジオでは触れなかったが、「お寺の掲示板大賞」というのがネット上では行われているので、実はネットでも多くのお寺の掲示板をみることはできる。

こうしたネットでの取り組みを由宇霧さんのような求めている人に伝えていくのも、バーチャル副住職こうどうの役割かもしれないと感じるところだ。

Q.お寺は複数に行っても大丈夫?

悟っている仏は嫉妬しないので、全然大丈夫!

こうどうの父はお寺巡りが好きで、こうどうが子供だったころは、京都や奈良のお寺を嫌というほどたくさん観光した。

仏もたくさんいて、「十方諸仏」という言い方をしたり、「三千大千世界」という世界が数えきれないほどあって、その一つ一つに仏がいるともいわれている。

仏が持っている世界を「浄土」と呼んでいて、仏の数だけ浄土もある。

浄土宗では、亡くなった人はみな念仏の力で阿弥陀仏に救われて、みな仏になっていくので、現在進行形でも仏は増えていくのである。

そして、そのすべての仏が悟っているので、嫉妬などはしないのである。

Q.悟りってなに?

悟りとは、あまりに深い概念なので、こうどうもまだ理解しがたいところである。

が、「煩悩をすべて捨て去った状態」というのが、よくある悟りの説明だ。

煩悩という言葉は欲望、特に性欲の文脈で語られることが多いが、本来の意味を一言でいえば「自分の思い通りにしたい」という気持ちである。

あらゆる欲望がこの「自分の思い通りにしたい」からきているだろう。

したがって、この煩悩を持っていない仏は、たとえ僕らが多くの仏さまに手を合わせていたとしても、
「なんで、あなたは私のことだけ見てくれないの!!」
「なんで、あなたは私のためにそばにいないの!!」
とは、ならないのである。

悟っている仏は、自分のためにではなく、誰かのため・人のために生きている存在なのだ。

仏になるのは難しい。煩悩は完全には捨てきれない。

上述した仏や悟りを目指していくのが、仏教の大前提ではあるが
浄土宗の教えでは、煩悩をこの世で完全に捨て去ることはできないとしている。

だからこそ、「阿弥陀仏」という仏に頼って、念仏を唱えていくことで、死後の極楽往生と成仏を目指していく教えになっている。

とはいえ、生前も煩悩が悪さをしないように、できるだけ煩悩を少なくし、必要最低限の煩悩だけで生きていくのが浄土宗という生き方になる。

自分で煩悩をいなす修行

由宇霧さんは、自分の煩悩や欲望をいなし収めるために、なるべく自分自身でそれらを満たせる修行をしているという。

他者に求めている欲望があって、それを主食にしていると、他者にも他者の人生があるので、それを貰えないときは餓死してしまう。また、それを貰えないことに腹を立てれば、赤ちゃんのようになってしまう。

では、そうはならないために、どうしたらよいのか?

由宇霧さんの場合、例えば嫌なことがあったとき、その状況を絵や文字に落とし込んで、再解釈することで、嫌なことがあった自分へのリアクションという欲望を満たしているという。

そうして満足して、余った元気さや豊かさを人に気前よく分けるというをされているという。

(この由宇霧さんの手法を仏教的にみると、悟りと救いを実践しているようにも見える。)

こうどうが、とあるお坊さんから聞いた話では
なにか一つ煩悩が湧いてきたときに、それをしたい自分の外側に、それを観察する自分をもう一つ持ち、とにかく、それをしたい自分を否定も肯定もせずに見ておく。
というのが良いのだそうだ。

そうすることで、自分の煩悩を客観的に見ることができ、最初に燃え上がった煩悩の炎が収まっていくわけだ。

どちらの手法においても、煩悩を客観的に見つめるという点で一致しているので、煩悩には客観視が一定の効力がありそうである。

燃え上がった感情は相手にあてるとトラぶる

由宇霧さんは、なにか嫌なことをされて最初の燃え上がった感情を「一次感情」をと呼んでいるそうだ。

その「一次感情」を対象者にあてると、たいてい良くない結果を生むというのが、こうどうと由宇霧さんの間で一致した。

だいたい原因は、なにかのボタンの掛け違いや勘違いから来ていて、そこで「一次感情」を相手にぶつけても、話は往々にして進まないからだ。

由宇霧さんの場合、そういうときは燃え上がっている自分の感情を観察したうえで、対象者にぶつけると良くないので、関係ない第三者に話を聞いてもらうこともするそうだ。

そうしていくうちに、自分の勘違いなどに気づき、ヒートダウンしてから、対象者に自分の気持ちを伝えて、勘違いを確認しにいくのだそうだ。

こうどうの場合、感情を観察し、対象者にぶつけないというところまでは、由宇霧さんと一致しているが、そこからはできるだけそのことを忘れて感情を流し捨ててしまうようにしている。

場合によっては、由宇霧さんと同じように第三者に話を聞いてもらうことも考えるが、あまり対象者に確認しに行くことはしないことが多い。

こうどうは、早く感情を忘れたいという気持ちが強いので、それ以上そのことで対象者と深堀りしたくないからだ。

とはいえ、由宇霧さんが言うように、そのままにしておくと、こちらにモヤモヤとした気持ちが残り、感情を流しきれない場合があるのも事実だ。

煩悩やそういった一次感情の対処法は、人によって様々で、人と違ってても何も問題はない。

だが今回、お互いの対処法を話し合ってみたことで、またそれも自分を見つめ直すことに繋がり、これもまたお互いのウェルビーイングに近づいていけたのではなかろうか?

こうどうも、たまには誰かの懐に飛び込み、気持ちを確かめあう勇気をもちたいものである。

イベント告知

最後に、当プロジェクト「Yoriyoi(よりよい)」からイベントのお知らせです。

Yoriyoi隠れ家寺子屋「修行について」
日時:11月12日(火)22:00~22:45
講師:バーチャル副住職こうどう
主催:ウェルビーイングプロジェクトYoriyoi
参加費:2500円→オープニング記念で800円
チケット:以下のページをクリックして、「申し込みへ進む」から!
会場:cluster

10月下旬に、こうどうが行ってきた修行のお土産話をする有料イベントです。

修行の内容は、秘匿すべきものもあるので、言える範囲のお話にはなりますが、あまり一般の方には知ることのできない話が聞けると思います。

オープン記念で、半額以下の800円で見れますので、興味を持った方はぜひご覧いただければと思います。

会場はclusterというメタバース空間ですが、スマホやPCのみでもclusterで話を聞けますので、アカウントがない人も登録して、申し込んでみてください。

では、最後までご拝読いただきありがとうございました。
また次回の更新でお会いしましょう。

同称十念

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