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04|母の揺れにこだまされて
暑い日が続いています。
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村田さんの投稿を拝読していると、自室の窓から窺える青を覆う入道雲と、問答無用で部屋を沸かす熱波が、せめて傷を持つ人の下では柔らかであって欲しいと願わずにはいられません。一方で、遠藤周作の『沈黙』にあるように、人が抱える苦しみの前で、海も山も静観を貫き通すならば、私の願いも望み薄でしょうか。
となれば、やはり人が抱えたものは、人同士で分け合って解消していかねばなりません。その意味で、医者という立場と、医者以前の同居人としての振る舞いの塩梅の変化が、呼び名の移り変わりに感じられた、という村田さんのご経験は心強いものを覚えます。
さて、幸運なことに筆を取る機会をいただきました。ここに記すのは、2011年、当時小学3年生だった私からみた、母親の話です。ですから、前談のお三方とは異なって、被災の経験を綴ります。これを読んでご不快に思われる方が少なからずいるだろうと予測はつくものの、それでもこの機会に書き残しておきたいと思います。
分岐点
小学3年生。東京都の市と区の境に住んでいた私は、2011年3月11日に、はじめて狼狽する大人に囲まれた。教員や親はおろか、友人の父母やご近所さんまで。とにかく出会う限りの大人が、取り乱していることを表情にも言葉尻にも隠せていなかった。
テレビで津波の映像が流れると慌てて電源を落とす学童保育の大人。21時を回っても迎えが来られない家庭の子をたらい回しにする住宅街。毎年、街ぐるみでおこなっていた防災訓練も、有事の際にどれだけ効果があったのかわからない。確かに人は死んでいない。怪我人も少ない。倒壊した家屋はみつからない。それでも、子どもが知らなくてよいとされてきたことが、無数の亀裂の隙間から漏れ出した日だった。
それから1年間、家庭環境は悪化した。両親が頻繁に言い争った。軋轢の末に、母は父を東京に残して、私と2歳の弟を連れて父方の実家のある福岡に移住を決めた。移住することは、ぎりぎりまで誰にもいうなと口止めされた。今日まで、この移住が私の人生の大きな分岐点であることを忘れたことはない。もし、右折せずに左折を選んでいたら、と何度も思いを巡らせてきたが、そのことで母や父を責め立てたことは一度もない。
当時、関東圏から西へ移住を決める母親がいたことはよく知られた話である。あちこちで移住者のコミュニティが立ち上がり、受け入れ態勢の拡充や、移住先で根が張るまでの交流の場とされた。コミュニティに集まる母親には、いくつか共通点があったと思う。特に、福島第一原子力発電所の事故によって流出した放射線が、息子・娘に健康被害を及ぼすことを恐れていた。家の食卓に並ぶものは、おおむね西の生産物だった。一部の生鮮食品売り場やレストランでは、取り扱っている食材のシーベルトの値がリストになって貼られており、好んで利用した。コミュニティでは情報共有も盛んだった。マクロビやビーガンの食事が流行ったり、対放射線に関する情報が信憑性の有無を問わずに流布された。
一度、叔父に「太亮のおかあちゃんはいろいろいうかもしれんけど、テレビで被災地の人たちを見よったら、やっぱり向こうのものを食べて応援せないかんと俺は思うよ。」と言われたことがある。当時はよくわからなかったが、今になって反芻すると、母の置かれた立場が窮屈であったのでは、と考えずにはいられない。
コミュニティが瓦解したのか、それとも母が距離を置いたのか。私が15になる頃にはぱったりと生活の中から震災を思わせることは消えていた。一緒に移住してきた何人かのママ友が、東京に残した夫の元にもどった、という話は度々きいた。私の場合は稀有で、父がリモートワークを決めて福岡に越してきた。パンデミックの前であるから、当時の父の心境も、息子の私には想像に余る部分がある。
高校入学を機に、石巻を家族で訪れたこともあった。大川小学校の語り部から言われたことは、母親の姿とよく重なったので今でも忘れられない。「自分の命は自分で守る。」散々、防災が騒がれる世の中で、まさかこれが初見のはずがない。それでも、私はこの語り部と母の姿からこれを学んだと断言できる。
あのとき移住を決めた母の息子として思うこと
正直、母に言いたいことはいろいろある。あのまま東京にのこっていたら、それはそれで豊かな生活を送っていたと思う。私の心に刻み込まれたモヤモヤはぶつけようにも壁がない。十二分にもがいたであろう母を、これ以上苦しめたくないとは思いつつも、吐口として無尽蔵に喚き散らしてしまうのは、私の稚拙さ故である。
世間も、母のような人に対して、息子とは違う言葉を向けてきた。陰謀論の信者だと罵った。科学的根拠に基づかない主張をすれば、学のなさを指摘された。私や弟に対する愛情を曲がったものだと揶揄されたこともあったと思われる。
思えば、あの日以来、母の心はずっと揺れている。揺れていることを背負い込んで、私と弟の分まで抱えて、今日にたどり着いている。私には、母が私を誘ってきた道が正しかったかは到底わからない。ただ、美談でも短絡的な決まり文句でもなく、私と弟のことを考え続けてくれたことだけは確かである。
考え続けることは、極めて孤独な愛情だと思う。考えを安易に言動や行動で発露すれば、厚かましくなってしまう。他方、対象のことを考え続けるかぎにりおいては、外部に表象されることは決してない。愛情があるにも関わらず、常にうちにとどまり続ける。もし、それが必要に迫られて漏れ出そうものなら、命や名誉をとしてでもその責任を取ろうと努力する。私は母にそういう愛情を教わった。
母は、きっとこのこだまを聞いたら不本意に思うだろう。そんなことは気にせずに、もっと勉強しろ、と言われかねない。けれども、これは「こだま」なんだ。言ってしまったが吉日、別に母に向けて言っているわけではない。もし母宛なら、むず痒い思いで全てを消してしまうだろう。
大屋太亮(おおやたすけ)
九州大学共創学部4回生
2001年神奈川県で生誕。2011年に東京都で震災を経験する。その後、福岡へ移住する。現在は、アイガモ稲作の質的研究に従事。いろいろ書きましたが、私はきちんと幸せです。
こだまのかけあいっこについて
わたしたちがこの企画を立ち上げたのは、何か中心で大きな動きや声ばかりに耳目が集まり、その周辺に取り残されたり、手伝ったり、かき消されかけたり、疲れてしまったりしたことにあります。そして、小さな声とその声の主にただ向き合うこと、聞くこと、書くことの重要性を改めて共有しました。
この、「こだまのかけあいっこ」は、さまざまな役割、立場、向き合い方などから「震災」というキーワードをたよりに集まった人たちが、それぞれの小さな声を書き残し、つないでいく連載企画です。
みなさんがこの小さな声、こだま、人に応答し、そこにひたむきにかけあえる場になり、集まる人たちが安心して自らの存在や生をひらくことができたのなら、この上ない喜びです。