シン・エ
「シン・エ」
目の前の白い紙を見て何かを感じたり思ったり考えたりすることがあります。「感じる」「思う」「考える」この3つは全く違うものです。残念ながら絵の評価でそこを理解して評価をくだされてるものは世界中どこを探してもありません。ポンコツです。これがどれだけ愚かなことか考えてみてください。言葉の意味がわかるなら誰でもわかります。
白い紙の前で浮かんでくるものは美しく綺麗なものばかりではありません。どちらかと言えば悪いイメージの方が多いはずです。美術の授業では間違いなく美しく綺麗な表現以外は認めません。そこで都合よくコントロールできる人間をアートの内外問わず育てています。学校での図画工作と美術の授業はその程度のものです。大学も同じです。
白い紙を見て何を感じ、考え、思うかは自由です。ただし、それを表に出すことは簡単ではありません。出してはならないバイアスが働いているからです。本来絵は他のメディアに先んじて「自由」であることを世界や世間に表明しています。自由の先駆けであるように世界にブランディングしていると思います。アートも同様です。しかし実際はどうかといえば、かなり乖離していて自由とは程遠い状況です。世間に露出している画家は美術評論家なり画廊なり美術館の顔色を伺った絵しか描いていません。本当の意味で出世しているのはやはり世間という美術館を問題にはしていないと思います。絵やアートは悟りのように言えば出世間、つまり世間から出て出世できていないものです。主にお金の都合を軸に動いています。一方で自由に表現できない状況に反して、伝えなければならないことは噴出しています。絵やアートはさておきS N Sは自由度で言えば遥かに先行しています。例えばジャニーズの性加害です。子供にこれだけの災いが起きているのに黙らせてしまっていたのは社会の問題です。当然アートや絵画の問題でもあります。アートや絵画のしていることはどちらかと言えば子供を黙らせる側です。ジャニーズと同じように褒章を与えてコントロールしています。性加害もあります。ジャニー喜多川にペニスを咥えさせられたりしていたのだとすれば何の壁もなくサッと絵に描けたり、発言できるような開けた社会や絵画、アートの世界でなければなりません。それができないのであれば「自由」などと公言できません。おこがましいです。
自由とは本来正しいとされていることとは別に悪いことも表に出せることを意味します。
紙を目の前にして何かすることも、しないときもあります。そこでやるやらないは別として、感じ、思い、考えることは自由です。そして人の優劣はありません。誰も平等です。才能も関係ありません。優劣があったとしたら、それはまだまだ時代がついてきていないからです。昔は子供なら全否定かもしれませんし、年配の人の意見が絶対だったり、年配の人ならなんでも肯定されているように思います。あとは先生であったり、哲学者や芸術家でなければ全否定されていると思います。今はそのような偏見は減ってきたと思います。今1日も早く世の中が認識できなければならないのは人の感じ方や思いや考え方に優劣はないということだと考えます。
これが絵の話であった場合、目の前のそこで感じたり、思ったり、考えたりしたことの全てを絵は肯定しなければなりません。その全てが人の全てであり、ひとつも劣るものなどありません。仮に優劣を付けたとしたら、それは絵ではなく政治です。絵としてではなく政治的な絵の判断です。絵の政治や絵を利用した政治なので、自分の都合を優先して相手を潰す戦争や権力闘争に他なりません。絵の世界で起きた戦争や権力闘争を絵と称したいのは美術評論家です。そもそも美術評論家に絵はわかりません。彼らが絵にしたいのは歴史的な記述や絵の闘争の歴史です。それは正確には絵ではありません。でもアートの世界で権力闘争に勝ったのは美術評論家です。画家で表に出ているのは美術評論家に近づいて、そばにいて、平伏し、羊のような面持ちで媚びへつらって、絵の思いを捨て、感じ方を捨て、考え方を合わせて逆撫でしないようにした、ほんの一部のものです。これは全て戦争なのです。全てが正しい状況の中で自分が得をするために自分だけが正しいということにして、自分以外の全てを殺したから、「絵画は終わった」という風に見えてしまっただけです。最初から何も終わっていません。戦争に従いなどしません。戦争は愚かな人間のすることです。戦争は人を人と想わず屠殺しますが同じようなことが絵の世界でも起きていたにすぎません。最初から何も終わっていませんし、変わっていません。
仮にそこに何も描かなかったとしても肯定されるべきです。そこと向かい合うことで人の中にある可能性の源泉は開かれます。生産性のないものを肯定することは難しいかもしれませんが、人間は基本やらない判断がベースでほんのわずかな物事に限って生産します。ものを作る以上に大切なことが世の中にはあります。何でもかんでもやればいいと言うものではない。暴虐無人ではダメです。可能性がないように誤解されている絵画の源泉もまた人類の可能性と共に開くのです。
絵画の可能性はこれからさらに開かれていきます。絵画は終わったなどと言われていますが違います。絵画は終わっていません。可能性は一つには細かな差異を丁寧に見極めて認めていくことから見えてきます。
白い紙の前で起きる1つひとつの現象を丁寧に読み取り、分析して、言葉に置き換えて、カテゴライズしていく。その中から今までにない発見、進歩があれば評価し、場合によって賞賛し賞を与えてもいいでしょう。しかし現時点で与えられる評価は発見や進歩といった中身はなく形式だけが一人歩きしています。そういったことに陥っているのは丁寧に評価すると都合が悪いからです。大抵の評価は最大限に利益が得られるにはどれにどのように評価を与えればいいか?と言う論理で下されています。評価されている作品がなぜ評価されたのかを客観的に考える際にそのように見方を合わせればスルスルとどのように考え方を積み上げたかが見えてきます。損得が第一で、信念に沿って評価していることも稀にありますがとても珍しいです。信念に沿っていれば正しい評価ができているかといえばそうではありませんが損得よりは少しマシです。
発見でもなんでもないものを評価し受賞させている。評価しなければならないものに目をくれる気は全くない。全ては自分の利益のために評価や賞は与えられるのです。評価と賞のほとんど全ては実態がないので絵の評価や価値や賞は得体のしれないものになっています。得体の知れないものになっているのは実体があるにも関わらず無視して得体の知れないものにしたからです。価値のないものに価値を与えられるようにすれば都合いい。名前が売れている画家の作品は適当に描いても1000万くらいにはなります。名前のある例えば千利休は露店で適当に買ったものを高額で大名に買わせました。それによって未だに画廊や美術館、マーケット、国は金欠から免れています。コンクールは目まぐるしい評価とは無縁の特に秀でた作品がなくてもどれかに賞を出さなければならないので賞を出します。それで面子は保たれます。これらは作品を適当な考え方で否定し、その反対の考え方が優れて見えるようにして、優れて見えるようにする手法で成り立ちます。つまり否定から始めなければ成り立たないやり方です。多くはこれです。そもそも否定は必要ありません。全て肯定できます。さらにおかしい絵の世界は大きければ大きいほど絵はいいと決めていますが、小さな絵に悪い絵はありません、そもそも大きさで絵は決まりません。全ての大きさに意味はありますがその差異を認め、そこにある可能性を引き出していかなければなりません。そこに源泉はあります。現状マーケットでは絵は大きさで値段が決まります。得体が知れない訳です。
絵の指導では白い紙の前ですることをどう考えるかがとても重要です。決して大きさがどうとお茶を濁してはなりません。そこで起きていることの全てに無限の可能性があります。そこを認めず否定しながら都合のいい作品を選別してしまっているから絵は停滞しているのです。媚びへつらわなければ出世はあり得ない世界です。残念ながら多くの人がそこで肯定は無駄な努力と諦め、すぐに否定に参加してしまいます。いじめが生まれ、なくならない社会の心理と同じです。程度が低い。そうではないのです。いじめの対象として相応しい人はいません。否定やいじめを恥るべきです。
それをどう見て、考えるかで可能性は無限にあります。少なくともやり続ければ必ず新しい色と形は現れます。見れば見るほど新しいものが見えてきます。見えれば見るほど発見があるのです。否定が気になる評価に困った先人は、テンプレを作りました。それは安心安全を手に入れた一方で画家から探り続ける姿勢を奪い新しい絵画の可能性を潰したのです。
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