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アートの「天才」は誰か?正解は「誰でも」です。vol.2「教科書とは全く別世界の日本語があります。学校では全く指導できない世界が天才の世界です。」


LD(learning disability)でも正常な日本語を使っている
LD(learning disability)の私は読み書きに障害があります。
長年LDと向かい合ってきて日本語の読み書きはこれでもかなりできるようになりました。でも、例えば、まだ本を1冊読むのにかなり年月がかかります。書く体力と筋力は付いてきましたが読む時に使う筋力が弱く、神経が弱く、わかりやすく言うと直ぐに衰弱します。英語になるとさらに全然ダメです。落ち着いたら私の運営する学校で中国語と英語の教室を始める予定です。中国語についてはコロナ明け。留学生が本校に学びに来る予定です。そこで私を私は英語と中国語漬けにするつもりです。英語に関しては英検1級を目指してその過程を随時ツイートします。私が今の時点でどれだけひどいか先生に具体的に表現してもらいます。その際はいつもsが抜けたりする状況があからさまになるので皆さんにLDがどんなものか伝えられると思います。簡単に言えば気をつけていても何十年も解決しないのです。

私のようなLDの人間の日本語能力を正当に評価する人間はいません。LD自体認知されたのはここ数年の話ですから無理もありません。但し、LDの人間が普段普通に正常な日本語を使っていることは教育の未来を切り開く鍵になると考えています。
つまり、学校の、文科省の定めた指導要領では私は最低の日本語能力ですが、中学と高校の一歩外に踏み出し、社会やアートの世界に来れば基本的に私の日本語能力が問題になることはありません。強いて、日本語を得意とする人や畑の人に合わせて、読み書きの土俵で勝負するように仕向ければ問題になることはありますが、わざわざ用もないのにそんな土俵に上がる必要はありません。

私は読み書きはできませんが、それは普段必要のない特殊な状況において問題になるだけで、普段生きていく上で私の日本語能力はなんの問題もありません。つまり、学校はなんの問題もない、普通に仕事のできるLDの人間の日本語能力を評価する機能がないのです。それは記憶中心の教育が見逃した教育の世界です。
見逃した領域が働く言葉の世界は実は未開発の領域です。
アートの味、食べ物の味のように言葉のない世界。
その領域を示唆し開拓に導くことがこの文章を書いている目的の1つです。
それでそう。アートの世界のまだ見ぬ言葉を生み出す天才を私は育てるのもこの文章を書いている意図です。

私の近しいタイプの人間は偏差値50以下の世界には大勢います。そこから言えば、偏差値50以下の世界から、中学と高校の指導要領や教科書の内容を見れば、悪い言い方ですがナンセンスです。
まず、私は、私も含めて偏差値50以下の世界の住民は漫画の文字なら読めます。つまり教科書の活字は頭に一切残りませんが、漫画の中の情報は残ります。
偏差値50以下と言うと国民の半数です。
ここでは詳細に述べませんが漫画の力を侮ることなかれ。

国民の半数は活字は素通りするので、わかりやすく言うと英語、国語、社会、数学、理科の授業の内容は一切頭に残っていません。偏差値50以下の人のほぼ全員が社会に出て教科書に書かれた世界の物事に触れません。
そのような我々に活字を見せても無駄です。そんなことをするくらいなら、教科書を全て絵と文字の漫画にすればいいのです。そうすれば社会も理科も数学も教科書の内容は頭に残るようになります。漫画大国日本ならできます。
今の学校教育は国民の半数に、意味のない授業という時間を、苦痛に堪えて凌ぐ忍耐を鍛えるものにしかなっていません。学校の授業は嫌なことでも我慢して受け入れるためにあるものと諭され、社会に出るまでに服従の訓練をさせられます。


教科書は偏差値50の我々よりもっと上等な上級国民に合わせて活字中心に作られます。上級国民は「与えられた者」として生きていきます。それ以外は「与えられない者」として生きます。「与えられた者」「与えられない者」という言葉は下級国民の意識の中にはありません。上級国民が意識する言葉です。上級国民の文科省にその構図を壊す気はありません。それによってこのままでは未来永劫、我々と教科書が綺麗にフィックスすることはありません。これを誰かがどこかで壊さなければ国民の半数に教科書は機能しない。

LDが日頃使う日本語は異常ではありません。問題なく日本で社会生活を送り、仕事をしている健常者の日本語です。教科書の言語は非日常なのです。問題なく日常生活を送るLDの日本語を、これを正当に評価し、健全に育成する指導を編み出せる人が文科省にいません。
だから私の高校の成績は最低でした。
学校教育の国語が全く機能しないLDが、LDの人間が日本で問題なく生きていけるのは何故か?それは「日本人は全員日本語の天才」だからです。

学校の生み出せない天才の世界がアートの世界にもあるのです。

続く


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