見出し画像

アートの「天才」は誰か?正解は「誰でも」です。vol.3「表現とは教科書にある、教科書で綺麗とされる、教科書通りの日本語を使うことではありません。そんなものを一切気にせず心の言葉を出せばいいのです。」


LD(learning disability)の最善の日本語
教科書とは全く別世界の日本語があります。
日本はその世界の日本語を知るべきです。

LDの私が使う日本語は指導要領の定める上等な国民のための日本語ではありません。学校ではなく、家庭で自然に身につけた日本語です。
どちらかと言えば教科書からすれば下等な日本語。
でもその下等な日本語の方がよりよく伝わるということもあるのです。
問題は上等とか、下等といった偏見でものをみないこと。
伝わる、伝えるということにのみ純粋に眼を向けることでみえてくる世界だと思います。
漫画やお笑いが下等だと昔の教育委員会はいいました。学校は私達からどんどん笑顔を奪いました。幼い頃の笑顔のない私をささえたのはジャンプやドリフでした。
日本人から笑顔を引き出したのは下等な日本語です。

私の身につけた日本語を学校は一切評価致しません。
教科書とは別世界の私のいる世界に近いのは漫画の世界。人や正義やビジュアルにしっかり寄り添う言語。
文科省の人間は真摯な態度でLDの人間を蔑むのではなく歩み寄り、偏見を捨てて漫画を読むべきでしょう。そうしなければおそらく国民の半数は教科書に歩み寄ることはありません。

時として教科書は災いしかもたらさない外敵です。
教科書とは本来そのような目的で作られたものではないでしょう。
国民の中で教科書がわけがわからなくても黙って辛抱して受け入れる根性だめしの為にあるとしか考えていない人は多いです。

LDの私がよりよく活きていくために最善の日本語があります。
それはどんな偉い先生でも私に指導することはできません。
色んな国語の先生と出会いましたが、私にとってはどれもトンチンカンで的はずれなものばかり。何もしていないのに誇られても困ります。
古典とか漢文とかになると私にあるのは死。心臓が動いていても思考停止の無我の境地になってやりすごすしかない。
私が高校生の時、学校は私に古典と漢文を強制的に超えるべきものとして指導し、指導する教師程度の精神力では到底登りつめることなど困難な頂上の見えない高い壁を何もわからず私の目の前に持ってきました。


活きた日本語は誰もが持っています。
それについて多くの人が無自覚です。
私が学校にいた時に誰も私のLDを気づかなかったことと同じくらい無自覚です。

教科書にも指導要領にもない活きた日本語は、
軽く扱われ、誰も尊重しません。

人には自分の言葉があります。
もっと「自分の言葉」に眼を向けるべきです。
しっかりと自信を持って向かい合い、自分の言葉を自覚するべきです。
そこには実に素晴らしい深い世界があります。
教科書で習った日本語は一度忘れて心の中にある言葉を覗いてみましょう。

言葉は表現です。
言葉は何かを伝えたり伝えられたりするもの。
言葉はアートそのものです。

日本は自分の言葉を大事にしていない。
日本でアーティストが活きない根本的な原因がここにあると私は考えています。
言葉が綺麗とか間違っているとか言う前に大切なことは思っていることを表現して伝えること。そしてしっかりと受け止めること。

私は社会や学校で自分の言葉を尊重しないように教育されました。
ありきたりの言葉を認め、自分の考えは封じるように教育され続けました。
言葉と言えば、日本語より使えもしない英語を尊重するように教育を受けました。
我々の脳の中にあるのは英語ではありません日本語です。
英語信仰はともかくその前にしっかりと母国語を認めるべきです。
それも学校の日本語ではありません自分の日本語です。
自分の心としっかりと強く結びついた日本語です。

自分の言葉を活かすということ。
それは自分の見方。考え方。感性。表現を受け入れて、尊重するということです。
尊重するということは自分だけが独りよがりになってもできないこと。
社会全体が個々についてもっと理解し尊重し、考えを、意見を引き出していかなければなりません。

日本人が選挙に行かないのは自分の考えていることを社会に向けて表現することに関心を持たないからです。その関心を奪ったのは社会と学校です。
表現とは教科書にある、教科書で綺麗とされる、教科書通りの日本語を使うことではありません。そんなものを一切気にせず心の言葉を出せばいいのです。
間違いを指摘されるくらいなら関わらない方が身のため。表現の芽を摘んだのは出すよりも抑える方に心がシフトするように習慣づけている社会です。出る杭は打たれる。どんどん前に出ればいいのです。出ようとするとろくなことがないので一切でないようにする。だから選挙に行かないのです。

日本人の頭にもともとある言葉や論理を学校は学校教育で否定しました。改めて個々の考え、論理を生み出す元となる心の言葉を肯定して、正しい日本語はおいておいて個々に表現することを促して行かなければなりません。選挙に投票したくなる気分にさせるのはその後です。

多くの子供の大切な声を、誤った正論が押さえ込み、ねじ伏せます。
子供たちが家庭で身につけた言葉は素晴らしいものです。
それはLDの私とて同様。我が家の日本語は学校のテストには全く響きませんが、それでも独特の活きる文法があるのです。
学校の言葉が苦手な子供は、言葉を失い、言葉につまります。それはその子の言葉を認めてあげないからです。下等だとか上等だとかどうでもいいことです。言葉を取り上げることは心を奪うことにつながります。心を奪われた子供はグレたり、自分の殻に閉じ籠るしかありません。

私は子供の声をねじ伏せる大人が大嫌いです。
理由はなんであれ認めません。
私は全身全霊を込めてその逆の仕事をして子供が声を出せるように働きます。
上等じゃなくていい。思っていることを知りたいし、しゃべれるようにしてあげたい。
言いたいことがあるなら言っていい。
それの邪魔をするなら誰であれ私は中指を立てます。
私は親に自分の考えを発言すると殴られました。もしくは出過ぎた真似をしないように謙虚な姿勢と説かれました。
今、私が自分の考えを述べて殴るなら私は10倍にして遠慮なく殴り返します。
発言されると殴る人間はおろかで弱い人間です。今の私には何も言えないでしょう。
これは、場をわきまえるということとは別の話です。
そしてこのようなことは他にも多い。
子供から一切の言葉を奪う教育を目にすることが多い。
これはアートの世界も同じです。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?