iPhoneとガラケー
昨日、今日Note投稿をしなかった。
一昨日は怠慢、昨日は書く気が起きなかった。
昨日は先日から準備していた面談を実施した。
当初の目的は[まず信頼関係を構築する]が目的であったので、そこは達成できたと思う。と同時に難しさも感じた。
何が、難しいというと
1200年継続している伝統教団としての重みと今の時代に合わせた必要な変化のバランスをとることだ。
もう少し詳しく補足すると、例えばビジネスで言えば
Missionを大切にしながら、時代のニーズに合わせてVisionが変化していく
というのは当たり前のことなのであるが、
宗教に関しては
1200年変わらずにいたことが現在においての最大の価値
なのである。確かにこれはその通りだ。
ビジネスは時代(国民)のニーズの変化に合わせて変化しなければ、淘汰されるのが自然の摂理であるが、宗教は「ニーズに合わせて変化する」ということ自体をしておらず、今もなお現存した状態で迎えている。
つまり「変化する」をしてこなくても良い意味でも成り立ってきたのである。もしかすると国民からの宗教に対するニーズとは「変化しないこと」であるのかもしれない。
社会の変化が目まぐるしく進むからこそ、宗教だけは変わらないでいることが人々が潜在的に求めていることなのかもしれない。
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この部分が非常に難しい点で、宗門の中にいる人のマインドの大きな部分が
「変わらない」ことを大切にしている人が非常に多いのであろう。
CJCの活動はいわゆる「時代の変化に合わせて変化する」ことを大切にしていてそれを価値として宗門に提供しようとしている訳であるが、「変化をしないことを価値」として認識されている方々に受け入れていただけるかが非常に不安になったということが正直なところだ。
本気でストックデールの逆説状態である
昨日、お会いした方は、非常にモチベーションの高い若い方なのであるが、その方もやはり「伝統と変化」のバランスを大事にしないと、物事が進まないとおっしゃっていた。
その後実家に帰り、母親にCJCの活動の概要を話した。話した後の率直な感想として
今まで、仲介業者がいなくて第三者にマージンを払わずに、暗黙の了解で成り立っていたのに、敢えてマージンを取られるようなシステムを果たして人々は利用するの?
という感想であった。
要は、求めている人はいるかもしれないけど、そのニーズってごく少数派じゃない?
ということだ。
これも確かにその通りだと思う。
しかし、これに関してはCJCはガラケーが主流であった時代に出現したi Phoneのようなものだという論理で自分で自分を納得させた。
確かにi Phone登場時も、一気に広まった訳ではない。あくまで一部の人が少しずつ使い始めて徐々に大衆に受け入れられていったのである。
だから、母親が「それ、本当に必要ある?」
という素直な感想はリアルであると思うし、かつ自分たちが進めようとしている方向として正しいと思いたい。
ただ、今後CJCの活動を赤の他人ではなく、宗教者である当事者たちに話す機会が増えるであろうが、その度に「それ、本当に必要ある?」
と言われたとすると、それは
CJCはIPhoneではなく、人々から求められていないただのガラクタなのか?
という事実に直面するのではないかと不安である。
考えよう。